武漢と日本の違いはいったい何だったのかと思うと、まず後発の強みで、ある程度の情報が最初からあったことと、ダイヤモンドプリンセス号(二月三日に横浜沖に停泊した)でシミュレーションができたという幸運に恵まれたことだろう。
初期の医療崩壊を防げたのも、国民にある程度の心構えをさせる余裕があったからではないかと思う。
日本には軍医がいないため、PCR検査を行う人材が決定的に不足していて、最初から極端に検査数を絞らざるを得なかった。この検査を絞り、疑わしくても自宅で待機するということに多くの国民が納得した。検査が簡単ではないことはダイヤモンドプリンセス号のおかげで、誰もが知ることとなった。
あの時何で乗客全員すぐに検査しないんだろうと疑問を持った人も多かったが、それができないと分かった時点で検査能力のなさは周知された。そして感染が疑われるからといって安易に病院に行ってはいけないことも理解された。
最初のパニックと医療崩壊がなかったため、春節に大勢の中国人が来日したにもかかわらず、感染はさして拡大せずに収束に向かった。これは今では第一波にカウントされてない。方方の『武漢日記』にも「娘は日本へ遊びに行って、二二日に帰ってきた」と書いてある。来てたんかーっ。
その後イタリアで感染爆発が起こり、ヨーロッパ全体に広がっていったとき、日本でも帰国者を中心にいわゆる第一波が始まった。マスク不足が起こり食品の買いだめなども始まった。そして武漢やヨーロッパのようなロックダウンを求める声が上がったが、そこで日本の法律では無理だということがわかってしまった。とりあえず自粛を呼びかけ、何ら強制力はなかったが、多くの国民がそれに従った。
これも怪我の功名だったかもしれない。ロックダウンは必ずしもベストな方法ではなかった。まずロックダウンが始まる間際に多くの住人が逃げ出して、それがよその地方に感染を広めてしまう。そして強制によるものだから、一人一人のストレスも多く、隙を見てはそれを破ろうとする者も後を絶たない。
それと方方の『武漢日記』でわかったのだが、ロックダウンは警備に多くの警察官が動員される。そこでクラスターが発生したら、逆に感染を広めることになる。
日本ではロックダウンは法的に無理ということで見送られたが、多分ヨーロッパでロックダウンを回避するには「集団免疫」という大義名分が必要だったのだろう。
人は誰だって死にたくないし、恐ろしい伝染病が流行すれば、自然に行動を抑制する。その自然に任せている限りはストレスは少ない。みんな一律ではなく危機感の度合いによって各自が調整できるからだ。前近代の無知蒙昧な群衆がいた時代ならともかく、ある程度の教育制度の整った国なら、強制しなくても自粛で何とかなるのではないかと思う。
もちろん、日本の左翼系の文化人は基本的に西洋崇拝だから、西洋を見習え、PCR検査をもっと増やせという声はあった。例の十五パーセントの人々だ。検査検査とうるさいから「ケンサーズ」なる言葉も生まれた。その一方で日頃から風邪くらいで会社を休むなと言っているような人たちだろうけど、コロナはただの風邪だから自粛は不要で、そのまま経済回せ(要するに「働け」)という人たちがいた。どちらも少数派なので、ネット上を散々賑わしはしたが、大半の国民は動揺しなかった。
この自粛というやり方で、結果的に第一波だけでなく、夏場の第二波も乗り切れたから、多分第三波もそれほど心配はないのだろう。コロナとインフルとのダブル感染の不安も、自粛が緩めば両方とも流行するが、自粛がある程度うまくいけば両方とも抑えることができる。むしろインフルの死者が激減する可能性もある。
あと、日本には自粛警察がいるだとか、感染者が責められるだとか世界に言いふらしている左翼やマスコミの連中がいるが、愚かなことだ。
コロナの前からどこの町にもゴミの出し方だとか猫の餌やりだとかに異常なまでの正義ぶった行動をとってストレスを発散している連中がいる。それがコロナにかこつけているだけで、数としてはごく少数で、私は外で仕事をしているが、まだ一度も自粛警察を見たことがない。
また感染者が責められているのではなく、安易に感染を広めるような行動をした人間が道義的に追及されているだけだ。法的責任がない分道義的責任を負うのは当然のことだ。
日本の左翼だとかリベラルだとか人権派だとか称する人は、基本的に方方さんを弾圧しているあっちの側の人間だから、日本のコロナ対策がいかにひどい失敗だったかを世界に広めようとしている。中国政府に責任を求めるのではなく、あくまで日本の政府というよりも日本国民を含めた日本という国自体を批判するための材料を探している。集団でBANさせる手法も一緒だ。
今日の東京の新規感染者数は226人で、底を打ち再び上昇に転じる気配が見られる。第三派の始まりになるかもしれない。奴らに屈せずに今まで通りの自粛を続ければ必ず勝てると思う。
それでは「ぬれて行や」の巻の続き。
二裏。
三十七句目。
霜に淋しき猿の足跡
岩にただ粥たき捨し鍋一ツ 塵生
去来の、
岩鼻やここにもひとり月の客 去来
の句を思わせる。猿だと思ったら、髪も髭も茫々に伸びた風狂人だったということか。
三十八句目。
岩にただ粥たき捨し鍋一ツ
甲は笹の中にかくれて 芭蕉
落ち武者に転じる。
三十九句目。
甲は笹の中にかくれて
追剥の砧をならす秋のくれ 北枝
宮本注に謡曲『山姥』とある。
「宝生流謡曲」のページから引用しておこう。
地謡 「隔つる雲の身を変へ。仮に自性を変化して
一念化性の鬼女となつて目前に来れども
邪正一如と見る時は。色即是空そのままに
仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり、
仏あれば衆生あり。衆生あれば山姥もあり
柳は緑 花は紅の色々
地謡 「さて人間に遊ぶこと。ある時は山賎の。樵路に通ふ花の蔭
休む重荷に肩を貸し。月もろともに山を出で。
里まで送る折もあり。またある時は織姫の
五百機立つる窓に入つて。枝の鶯糸繰り
紡績の宿に身を置き。人を助くる業をのみ、賎の目に見えぬ
鬼とや人の言ふらん
シテ 「世を空蝉の唐衣
地謡 「払はぬ袖に置く霜は夜寒の月に埋もれ、
打ちすさむ人の絶間にも。千声万声の。
砧に声のしで打つは。ただ山姥が業なれや
四十句目。
追剥の砧をならす秋のくれ
月に起臥乞食の樂 曾良
乞食なら追剥が出ても盗られるものはなく、気楽だ。
四十一句目。
月に起臥乞食の樂
長き夜に碁をつづり居るなつかしさ 芭蕉
碁は打つものだが、碁を綴るというのはいったい何なのだろうか。乞食は元棋士で、過去の対戦を思い出して棋譜や戦記を綴っているのだろうか。
四十二句目。
長き夜に碁をつづり居るなつかしさ
翠簾に二人がかはる物ごし 塵生
『源氏物語』空蝉巻の空蝉と軒端荻との対局の本説付けだが、「綴る」が無視されて碁を打つの意味になっているほかはそのまんまだ。
四十三句目。
翠簾に二人がかはる物ごし
祈られてあら怖しとうち倒れ 曾良
前句を怨霊と憑りつかれている人の二人としての展開する怪異ネタ。
四十四句目。
祈られてあら怖しとうち倒れ
汗は手透に残る朝風 北枝
宮本注にもある通り、「手透」は「襷(たすき)」のことか。修験者などのする結袈裟のことであろう。
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