2020年9月27日日曜日

  「舞都遲登理」の続き。

 「松嶋より平和泉へ心ざし、遙分入まゝ海道より半里斗右へ入て、とみの山登て見れば、富山大仰寺、高泉和尚額アリ。此所より松島・雄島其外島々浦々目に下に見おろし、手も届く程のけしき、詞に絶たり。松島を岡より見渡したるよりも猶增りて、國主も度々登山のほし行人必尋て見るべし。
    〇麥喰て嶋々見つゝ富の山」(舞都遲登理)

 前に「外ニ金花山・富ノ山」とあった、その富山に行く。大仰寺は観音堂の近くにある。高泉和尚の額があったという。松島の島々が一望できる。

 麥喰て嶋々見つゝ富の山     桃隣

 「貧乏人は麦を食え」といった政治家が、確か高度成長の頃にいたが、麦を食っていても松島の絶景を眺めたならリッチな気分になれる。

 「行々て石の巻、仙臺領也。諸國の廻船を請て大湊、人家富たり。石の巻といへる事、川の州に立石有、行水巴に成て是を巻く。昔より今に替らず、されば石の巻とはいひめる。所ハ邊土ながら詩歌・連誹の達人籠れり。
    〇茂る藤やいかさま深き石の巻」(舞都遲登理)

 JRの石巻駅の東側の旧北上川河畔に住吉公園があり、そこの川の中に巻石という岩があり、それがここでいう立石であろう。
 北上川は江戸時代初期に大規模な河川改修が行われた。登米のあたりで北上川はこの旧北上川と北東へ曲がる追波川とに分かれ、湿地が広がっていたが、登米城主伊達相模宗直が新田開発のために北上川を柳津から豊里の方に迂回させルルートを新たに切り開いた。
 そのあと伊達政宗の家臣川村孫兵衛が豊里から和渕で江合川に合流させ、鹿又へと迂回させるルートを切り開いた。これによって、登米の辺りで北上川は三つのルートで流れることになった。
 この時は旧北上川が北上川だったが、明治になると北上川から鹿又へと流れる一番最初のルートを断って、水をすべて北東へ曲がる追波川に逃がし、こっちの方を北上川としたため、石巻市街を流れるのは旧北上川になった。そういうわけで、桃隣の時代は巻石のある方が北上川だった。おそらく当時の方が水量が多く、岩を巻く波の姿が見られたのだろう。今は東日本大震災による地盤沈下で干潮時にしか姿を現さないという。
 石巻は「詩歌・連誹の達人籠れり」とあるが、具体的に誰が滞在したのかはよくわからない。

 茂る藤やいかさま深き石の巻   桃隣

 藤の蔓の石を巻くに掛けた句であろう。巻石のあたりの北上川は深く渦を巻き、あたかも茂る藤のようだ。

 「牧山の道、船渡し、此あたりを袖の渡。こふちのみまき・まのゝかやはらは、牧山のうらに有。石の巻より一里行て、牧山、法華不退の道場、奥ハ千手観音。湊入口石高キ峯は日和山、愛宕立給ふ。
 金花山、石の巻ヨリ十三里、舟路日和見合スべし。」(舞都遲登理)

 牧山は旧北上川を渡った向こう側にある山で、巻石のある住吉公園に袖の渡りの碑があるという。曾良の『旅日記』には、牧山を廻った後、「帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。」と記している。住吉公園は住吉神社があるから住吉公園なので、この位置に間違いないようだ。「住吉ノ社」は今は大島神社になっている。おそらく明治になってかつて式内社の大島神社に比定され、名前が変わったのであろう。
 袖の渡りは、

   実方の君の、みちのくにへ下るに
 とこも淵ふちも瀬ならぬ涙川
     そでのわたりはあらじとぞ思ふ
               清少納言(新後拾遺集)

など、歌に詠まれている。
 「こふちのみまき」は曾良の『旅日記』には「尾駮ノ牧山」とあり「おふちのまきやま」ともいう。牧山に比定されていたのだろう。『奥の細道』にも、「袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて」とある。
 曾良の『旅日記』には、「日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不レ残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云う)・遠嶋・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。」とある。日向山は旧北上川河口の今の日向山公園であろう。眺めが良く、万石海(奥ノ海)、牡鹿半島の山々(遠嶋)、牧山を見渡し、真野萱原も少し見えたという。遠嶋は牡鹿半島全体が流刑地だったことからそう呼ばれていたらしい。
 「すさまじきもの~「歌枕」ゆかりの地★探訪~」というサイトによると、仙台藩四代藩主伊達綱村も磐城平の内藤家二代忠興三代義概と同様、みちのくの有名な歌枕を自分の領内に置き換えて作っていたようで、おそらくほかの藩でも競うようにこういうことをやっていたのではないか。どうりで緒絶の橋がたくさんあるわけだ。その意味では尾駮ノ牧山も真野萱原も本当にここなのかは怪しい。
 牧山には零羊崎神社(ひつじさきじんじゃ)があるが、ここは古代の式内社零羊崎神社があった所で、その本地として魔鬼山寺があった。その後神社の方は廃れ、魔鬼山寺も後に牧山寺、長禅寺と名前を変え、桃隣が来た頃は「法華不退の道場、奥ハ千手観音」だったのだろう。明治の廃仏毀釈で零羊崎神社に戻ったようだ。
 それにしても「魔鬼山寺」とは何か漫画やラノベに登場しそうな名前で、牧山もこの表記に戻した方が人気が出るのではないか。
 「湊入口石高キ峯は日和山、愛宕立給ふ」とある。日向山は芭蕉と曾良も登った日向山公園で、愛宕山は旧北上川を少し登った所にある曽波神社のある愛宕山であろう。
 「金花山、石の巻ヨリ十三里、舟路日和見合スべし。」とあるのは金華山で牡鹿半島の裏側になる。距離があるので天候の悪い日は避けた方がいいという忠告を受けたのだろう。
 芭蕉が金華山に行かずにそのまま平泉へ向かったのは、曾良がこの季節は無理しない方がいいと判断したからかもしれない。その芭蕉の見残しを桃隣が訪ねることになる。

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