2020年9月22日火曜日

 今回の連休はお盆休みと打って変わって、みんな遊びに出たようだね。観光地は満員、高速道路は大渋滞でお疲れ様。さあ、十月が怖い。おもしろうてやがて悲しきGo To travel、にならなければいいが。
 昨日の人権思想の問題点を求めておくと、差別をなくすだとか経済格差をなくすだとか、その志がいくら立派でも、それが結局法整備による権力の介入を強化し、人々の自由を奪ってゆく。そして極端な場合は自助努力の禁止にまでつながりかねない。
 本来一人一人の努力によってなくさなくてはいけないものを、独裁的な権力にゆだねることになればディストピアに陥る。何でもかんでも法で規制するという発想には注意しなくてはならない。

 それでは今日は久しぶりに「舞都遲登理」の続きを。確か前回八月十六日で伊達の大木戸を越えたので、今回は仙台へ。

 「是ヨリ白石城下、此所と刈田との間、西の方にわすれずの山アリ。所にては不忘山といふ。金が瀬ヨリ岩沼へかかり、橋の際左へ二丁入て、竹駒明神アリ。社ヨリ乾の方へ一丁行テ、武隈の松アリ。松は二本にして枝打垂、名木とは見えたり。西行の詠に、松は二度跡もなしとあれば、幾度か植繼たるなるべし。
    〇武隈の松誰殿の下凉」(舞都遲登理)

 白石(しろいし)は白石城のある城下町で、そこを出ると今の蔵王町のあたりは今も刈田郡になっている。西に蔵王連峰の南端の御前山(不忘山)が見える。

 みちのくにあふくま川のあなたにや
     人忘れずの山はさかしき
              喜撰法師(古今和歌六帖)

の歌がある。
 白石川に沿って下ると東北本線北白川と大河原の間辺りに金ケ瀬という地名がある。岩沼はさらに先で白石川と阿武隈川が合流するさらに先の方に今も岩沼市がある。阿武隈川はここで南東へ大きく曲がり太平洋にそそぐ。
 この岩沼市に日本三大稲荷の一つといわれる竹駒神社がある。(もっとも、日本三大稲荷は伏見稲荷大社以外は特に決まったのもがなく、豊川稲荷、笠間稲荷神社、祐徳稲荷神社辺りから二つ選ばれるのが普通だが、竹駒神社が含まれる場合もある。)
 かつては武隈明神だったが、「武隈」と「竹駒」は音が似ているので、竹駒明神とも呼ばれていたのだろう。ウィキペディアには、

 「社伝では、承和9年(842年)6月に小野篁が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝える。後冷泉天皇の治世(1045年 - 1068年)に陸奥国を歴遊中の能因が、竹駒神社の神が竹馬に乗った童の姿で示現したとして、当社に隣接した寶窟山に庵を結び、これが後に別当寺の竹駒寺となり山号の由来となった。戦国時代には衰微していた当社に伊達稙宗が社地を寄進するなど、伊達家の崇敬を受け発展した。文化4年(1807年)には正一位の神階を受けた。」

とある。稲荷神社というと今でも「正一位稲荷大明神」の幟が立ってるように、かつては稲荷神社は明神を名乗っていたが、明治の神仏分離で神社の名前から「明神」「権現」が外されることとなった。
 この武隈明神から乾(北西)の方へ一丁(約110メートル)行ったところに武隈の松がある。今の地図で見ると武隈神社の位置が変わったのか、ほぼ真北に二木の松史跡公園がある。
 初代の松は貞観地震の時の大津波に流され、『奥の細道』に、

 「先能因法師思ひ出。往昔(そのかみ)むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、松は此のたび跡もなしとは詠みたり。」

という松は四代目だという。その後五代目の松が植えられ、芭蕉が見たのも桃隣が見たのもこの松になる。今ある松は七代目だという。
 その能因法師の歌は、

 武隈の松はこのたび跡もなし
     千歳経てやわれ来つらむ
            能因法師(後拾遺和歌集)

 さて桃隣の句だが、

 武隈の松誰殿の下凉       桃隣

 今ある松が昔和歌に詠まれた松ではないと知っているから、「誰殿の下凉」ととぼけている。
 曾良の『旅日記』には、

 「岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。」

とあるが、別に誰殿が古市源七殿というわけでもないだろう。

 「岩沼を一里行て一村有。左の方ヨリ一里半、山の根に入テ笠嶋、此所にあらたなる道祖神御坐テ、近郷の者、旅人参詣不絶、社のうしろに原有。實方中将の塚アリ。五輪折崩て名のみばかり也。傍に中将の召されたる馬の塚有。
  西行 朽もせぬをの名ばかりをとどめ置て
     かれののすすきかたみにぞ見る
    〇言の葉や茂りを分ケて塚二ッ」(舞都遲登理)

 岩沼を出て東北本線なら一駅、館腰の辺りから北西に行き、今の東北新幹線の線路を越えたあたりに佐倍乃神社(笠島道祖神社)がある。ウィキペディアによると、

 「享保17年(1733年)には宗源宣旨を受け、神階「正一位」を授与。往古から社名を村社「道祖神社」としていたが、明治時代初期に現在の社名である村社「佐倍乃神社」へ改称した。」

とあるから、芭蕉や桃隣の時代は道祖神社だった。
 芭蕉が「此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐる」とした社に桃隣は無事にたどり着いた。
 曾良の『旅日記』には、

 「笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過テ不見 。」

とある。下調べはしていたが、通り過ぎてしまったようだ。仙台道の岩沼宿の次は増田宿で、その間のどこかから左の方に一里というのはわかっていた。今は住宅地になっている名取が丘、愛島(めでしま)を通る愛島丘陵(めでしまきゅうりょう)の山道だったか。
 古代道路は白河から来る東山道が仙台道に近いルートを取っていたが、名取駅から西へ出羽路が分岐していたらしく、おそらく道祖神の社は出羽路の脇にあったのだろう。仙台高専名取キャンパスのある突き出した野田山丘陵を通っていたのではないかと思う。
 「舞都遲登理」には「近郷の者、旅人参詣不絶」とあるから、天気がよければ結構通う人も多くにぎわうところだったのだろう。今では塚はなく墓石が立っているようだ。

 言の葉や茂りを分ケて塚二ッ   桃隣

 道はやはり草の生い茂る山道だったのだろう。

 言の葉のさかふる御代に夏草の
     深くもいかで道をたづねむ
              頓阿法師(草庵集)

の歌が思い浮かぶ。

 「是ヨリ増田の町中へ出る。行先は名取川、橋を越れば仙臺、大町南村千調亭に宿。
    〇落つくや明日の五月にけふの雨
      雨天といひ所はいまだ寒し
    〇奥州の火燵を褒よ五月雨  千調
      端午
    〇菖蒲葺代や陸奥の情ぶり」(舞都遲登理)

 増田宿は東北本線の名取駅のすぐ南辺りにある。次に中田宿があり、その先で名取川を越える。長町宿があり、その次が仙台だ。
 大町南村がどの辺なのかはよくわからない。仙台市青葉区大町は仙台の中心部で青葉城にも近いが、その南側ということなのだろうか。
 千調は巻二「むつちとり」の「仙臺杉山氏興行、山川の富を祝す」の世吉(四十四句)興行に参加し、四句目の、

   並べたる木具に羅打かけて
 五段の舞は皆眠るなり      千調

をはじめとして三句を付けている。能の舞は正式には五段で演奏されるが、三段四段に省略されることも多く、五段で演奏されると長すぎて眠ってしまう客が多かったようだ。
 また、夏の部には、

 朝湿り紫陽草轉て水の隈     千調
 唐芝や四人目よりは簟(たかむしろ) 同
 若竹や喰気はなれて風の音    同

の発句もある。

 落つくや明日の五月にけふの雨  桃隣

 仙台到着は四月の晦日だったか。まだ五月ではないが雨が降っている。

   雨天といひ所はいまだ寒し
 奥州の火燵を褒よ五月雨     千調

 これは千調の返事であろう。雨が降って五月雨の季節なのに、ここ仙台の地はいまだに寒い。まだ火燵を仕舞わないで残しておいたことを誉めてくれ、と返す。

   端午
 菖蒲葺代や陸奥の情ぶり     桃隣

 「菖蒲葺(あやめぶき)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「端午の節句の前夜、邪気払いのため軒にショウブをさすこと。」

とある。ここにみちのくの人の心を感じられる、ということであろう。

 「青葉山ハ仙臺城山、本丸・二ノ丸ノ間をさして云。此者、清輔抄には當國といへり。勅撰名所集には若狭、宗祇抄には近江とあり。
 山榴岡・釋迦堂・天神宮・木の下藥師堂。宮城野、玉田横野 何も城下ヨリ一里に近し。

     みさむらゐみかさと申せ宮城野ゝ
     木の下露は雨にまされり
     とりつなげ玉田横のゝはなれ駒
     つゝじが岡にあせみ花さく
     さまざまに心ぞとまる宮城野ゝ
     花のいろいろ虫のこゑごゑ
    ○もとあらの若葉や花の一位」(舞都遲登理)

 仙台青葉城のあるところは青葉山だが、「あおばやま」という地名は古来和歌に詠まれて歌枕になっている。これがどこなのかは諸説あってよくわからない。

 常葉なる青葉の山も秋来れば
     色こそ変へねさびしかりけり
            大僧正覚忠(千載集)
 立ち寄れば涼しかりけり水鳥の
     青羽の山の松の夕風
            式部大輔光範(新古今集)

などだが、藤原清輔の『和歌初学抄』には陸奥とあり、『勅撰名所和歌抄』には若狭とある。「甘藷岳山荘」というホームページの「歌枕の青葉山」には、

 「天和2(1682)年版の八代集抄には式部大輔光範の歌に「宗祇国分に近江云々。若狭陸奥等に同名あり。然共(しかれども)大嘗会悠紀の国なれば此集の青羽山可為近江(おうみとなすべし)」と頭注があった。近江生まれの八代集抄作者北村季吟にも、歌枕としてはともかく、若狭の青葉山が知られていたことが読み取れる。また、近江生まれの教養人をして青羽山が近江にある根拠が500年近く前の宮中の儀式の和歌の詞書しかなかったようにも読める。」

とある。『宗祇抄』はこの宗祇国分ではないかと思われる。季吟の『八代集抄』なら、桃隣も読んでいたのではないかと思われる。
 若狭の青葉山は若狭富士とも呼ばれ、若狭高浜の辺りにある。近江の青葉山はよくわからない。
 山榴岡(つつじがおか)は今の榴ヶ岡で、仙台駅の東側に榴岡公園がある。ウィキペディアによれば、

 みちのくのつつじが岡のくまつづら
     辛しと妹をけふぞ知りぬる
            藤原仲平(古今和歌六帖)
 みちのくの千賀の浦にて見ましかば
     いかにつつじのをかしからまし
            右大将道綱の母
 東路やつつじが岡に来て見れば
     赤裳の裾に色ぞかよへる
            二条大后宮肥後(夫木和歌集)
 名にし負ふつつじが岡の下わらび
     共に折り知る春の暮れか
            道興准后

などの歌に詠まれている。
 今の榴岡公園のすぐ南にある孝勝寺に釈迦堂がある。元からここにあったわけではないが、山榴岡に伊達綱村によって元禄八年に建立された。桃隣が来たのはその翌年の元禄九年だった。
 天神宮は榴岡天満宮のことであろう。
 木の下藥師堂は仙台市若林区木下にある陸奥国分寺の薬師堂のことで、榴岡の南東にある。
 宮城野はウィキペディアに、

 「江戸時代に入って、仙台城とその城下町の建設や田畑の開墾が行われる中で、城下町の東側、陸奥国分寺の北側の区域は、藩主の狩場として野原のまま残された。そのため「生巣原(いけすはら)」とも呼ばれた。野守がここに置かれ、人々がこの野原にみだりに入ることは禁じられた。仙台藩の地誌『奥羽観蹟聞老志』によれば、この頃の宮城野原は、ハギやオミナエシ、ワレモコウ、フジバカマ、キキョウなどの草花が茂り、ヒバリやウズラが生息する野原だった。仙台藩第4代藩主伊達綱村は、宮城野の萩が絶えることがないよう、これを他の5箇所に植えさせた。また、宮城野原の東側には鈴虫壇と称されるところがあり、仙台城の奥方や姫君がここにスズムシの音を聞きに来たという。仙台藩では、藩主の伊達家が徳川将軍家にスズムシを献上する習わしがあった。」

とある。
 玉田横野は仙台駅の北側、地下鉄南北線の北仙台駅の近くにある光明寺、鹿島香取神社から榴岡の北側にかけての広い範囲だと言われている。

 とりつなげ玉田横野のはなれ駒
     つつじの岡にあせみ咲くなり
            源俊頼(散木奇歌集)

の歌に詠まれている。
 なお、このあたりの歌枕は、『奥の細道』には、

 「宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、躑躅が岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。」

とある。この頃はまだ釈迦堂はなかった。
 曾良の『旅日記』には、

 「一 六日 天気能。亀が岡八幡ヘ詣。城ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ帰ル。
  一 七日 快晴。加衛門(北野加之)同道ニ 而権現宮を拝。玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神へ詣、木の下へ行。薬師堂、古へ国分尼寺之跡也。帰リ曇。」

とある。
 亀岡八幡宮は広瀬川を渡った仙台青葉城にあり、大手門から入る。
 翌日、今の北仙台駅の東に東照宮駅があり、そこに東照大権現を祀る仙台東照宮がある。そこから南へ行くと玉田・横野があり、榴岡天満宮に出る。さらに南東に行くと木の下薬師堂に着く。国分尼寺とあるのは曾良の勘違いだろう。国分尼寺跡は国分寺の東の白萩町にある今の国分尼寺にある。木の下薬師堂は国分寺跡にある。

 みさむらゐみかさと申せ宮城野ゝ
     木の下露は雨にまされり
 とりつなげ玉田横のゝはなれ駒
     つゝじが岡にあせみ花さく
 さまざまに心ぞとまる宮城野ゝ
     花のいろいろ虫のこゑごゑ
 もとあらの若葉や花の一位    桃隣

 珍しく和歌が三首記されている。仙台の歌枕が詠み込まれている。
 そのあとの発句の「もとあら」は「本荒の萩」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「根元がまばらに生えている萩。一説に、下葉が散ってまばらに見える萩とも、枯れ残った古枝に咲く萩ともいう。《季・秋》
  ※古今(905‐914)恋四・六九四「宮木野のもとあらのこはぎ露を重み風をまつごと君をこそまて〈よみ人しらず〉」
  ※拾遺愚草(1216‐33頃)下「宮きのはもとあらのはきのしげければたまぬきとめぬ秋風ぞふく」

とある。季節が夏なので「もとあらの萩の若葉」だが、萩を省略している。宮城野のもとあらの萩の若葉は花にも劣らぬもので、官位で言えば一位に相当する。

 「芭蕉が辻 大町札の辻也。
    神社仏閣等所々多テ略ス
 南村に廿日滞留、いまだ松嶋をかゝえて、たよりなき病苦、明日もしらず、然どもあるじ心づくしによりて蘇生、旅立時の嬉しさ、いつか忘んと袖をしぼりぬ。
    ○陵霄の木をはなれてはどこ這ん
    ○一息は親に増たる清水哉
       賀行旅
    ○くつきりと朝若竹や枝配り 千調」(舞都遲登理)

 「芭蕉が辻」は今は「芭蕉の辻」と言うが、仙台市青葉区大町、地下鉄東西線青葉通一番町駅の近くにある。
 ウィキペディアには、

 「仙台城の城下町は、大手門からの大手筋(大町の街路)とこれに直交する奥州街道(国分町の街路)を基準に町割がなされた。この十字路が芭蕉の辻であり、この沿道の大町、国分町の両町は城下の中心地、いわゆる目抜き通りだった。」

とある。
 この中心地にも神社や仏閣がいくつもあったのだろう。ここでは省略されている。
 南村は大町南村千調亭のことだろう。病気のため結局二十日間滞在することになったか。着いたのが四月晦日だったから五月十九日までいたということか。
 「あるじ心づくしによりて蘇生」と千調さんも大変だったようだ。

 陵霄の木をはなれてはどこ這ん  桃隣

 「陵霄(りょうそう)」は「霄(そら)を陵(しの)ぐ」で高く飛ぶことをいう。病気も全快してさながら木の上から空に向かって飛び立ってゆくようなものだから、もう病で這うことはないだろう。

 一息は親に増たる清水哉     桃隣

 実の親にも勝るような手厚い看護を受けて、清水で一息ついたような心地です。
 これに対し千調は餞別として、

   賀行旅
 くつきりと朝若竹や枝配り    千調

の句を返す。今朝見る若竹の枝ぶりは大変しっかりしたものです。

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