2020年9月21日月曜日

  仇討というのは自助から来る発想なのだろう。凶悪犯罪の検挙率が低く、人殺した奴が大手を振って歩いているような世の中だと、人々は自分で自分の身を守らなくてはならない。
 アメリカだとみんな銃で武装するが、刀狩の行われた日本では、庶民はせいぜい脇差くらいしか身に着けることができない。
 帯刀を許された武士の場合は仇討が許されていた。ウィキペディアにはこうある。

 「江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。しかし、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められた。
 武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討を果たした者に対して、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は禁止されていた。」

 元禄十四年に起きた赤穂四十七士による大規模な仇討は、合法的な敵討と認められず、本来なら死罪になる所を、武士の体面を重んじるということで切腹という結末になった。
 忠臣蔵の物語が今日に至るまで庶民の共感を得ている背景には、公権力による処罰がいつの時代でも不完全なことがあって、自助を認めてほしいという声が常にあるからだと思う。
 アメリカのBLMにしても、素朴な庶民感情としては、警官にひどい目にあった黒人たちが暴動を起こすことに、それほど否定的ではないと思うが、人権派の人たちはあくまで自助を禁止し公権力による解決を絶対視するため、暴動を起こす黒人は非難され、平和的なデモを行った白人の方が賛美される。そして、日本人が被害者意識で黒人に感情移入することを恐れ、過度に加害者意識を植え付けてきた。まあ、所詮人権思想自体が白人の考えたものだし、西洋崇拝の日本の知識人は差別と戦う人権派の白人に共鳴しているにすぎない。
 極端な社会主義ににあっては自分の生活に必要なものを自分で稼ぐことを禁じ、すべては公的分配によらなくてはならないとする。飢饉が起きたら、通常なら野草を食べたり、庭に短期間で育つ作物を植えたりして自己防衛するものだが、それまで禁じられるということになると、多くの餓死者が出るのは必然だ。
 菅政権が誕生した時に、左翼の方から「自助、共助、公助」の順番が逆だという声が上がったが、本来人は自助と、親族・姻戚などの共助によって生活していて、やがて文明が発達するにつれて公助の度合いが強まっていったのだから、この順番は自然だし、「公助、共助、自助」という順位を付けるなら、むしろ危険な感じがする。
 極端な社会主義は最高指導者による絶対的権力にすべてをゆだねることを主張するが、公助のみの生活になり自助が禁じられるとなると、すべての生殺与奪権を権力が握ることになる。
 今日でも仇討の復活を望む声があるのは、権力への不信があるからで、ただ今の日本では凶悪犯罪の検挙率はかなり高く、死刑制度も存在するため、それほど大きな声になる心配はない。しかし、再び殺人鬼が大手を振って歩くような時代になれば、自助を真剣に考えなくてはならなくなるだろう。ただ、日本の場合は銃保持へ向かう心配はないのではないかと思う。そのかわりにいつの時代でも出てくるのが「仇討制度復活」だった。
 不当な差別はいつの時代にもあるものだが、人はその都度自分の力で戦い、たとえ敗北に終わったとしても、その戦いは多くの人の共感を呼んだ。人権思想はもともとそんな中から生まれたはずだったのだが、時代が下るにつれていつの間にか人権思想の方が公権力と結びついて、自助に対して否定的になっていった。そこから差別を受けた者は、哀れな被害者として矮小化され、かえって尊厳を奪われていったのではないかと思う。
 アメリカのBLMも結局は暴動を起こした初期衝動が否定され、ただ民主党への投票へと誘導する勢力に乗っ取られているのではないかと思う。
 人権思想は人間関係のあらゆる問題を法に支配下に置き、公権力による公助の中に組み込もうとし、自助の範囲を極力狭めようとしている。一見良さそうに見えるが、実のところ人間関係のあらゆる場目に権力の介入を許すことになる。
 マイノリティーにかかわることは、いかなる場合でも訴訟を起こされる可能性がある。なぜなら傷ついたかどうかは被害者が一方的に決めることができるからだ。
 恋愛は禁止されることはない。しかし愛を語るどの言葉もどの行為も常に相手の同意を得られているか確認しなくてはならなくなり、しかもひとたびその行き違いで訴訟になれば、無実を証明するのは困難になる。なぜなら、性交の同意に書面を交わすなんてことは無理だ。そんな証明書はリベンジポルノなどにいくらでも悪用できてしまう。かといって書面なしの同意は一体どうやって証明すればいいのか。
 恋愛は禁止されなくても、人権の高度に発達した社会ではやがて恋愛は困難になる。それはやはりディストピアといっていいだろう。
 話が長くなったが、「あなむざんやな」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   討ぬ敵の絵図はうき秋
 良寒く行ば筑紫の船に酔      芭蕉

 「良」は「やや」と読む。仇を討つために筑紫の船で旅をするのだが、船酔いして情けない。
 筑紫船「めづらしや」の巻二十三句目にも、

   寝まきながらのけはひ美し
 遥けさは目を泣腫す筑紫船     露丸

というふうに登場している。
 三十二句目。

   良寒く行ば筑紫の船に酔
 守の館にて簫かりて籟       亨子

 「籟」は「ふく」と読む。王朝時代の話にして国守の館で「あそぶ」。
 三十三句目。

   守の館にて簫かりて籟
 十重二十重花のかげ有午時の庭   皷蟾

 「十重二十重」は幾重にもという程度の慣用句で、本当に二十重の花があるということではない。

 七重八重花は咲けども山吹の
     実のひとつだになきぞあやしき
              兼明親王(後拾遺和歌集)

の七重八重と同様、あくまで例えだ。なお、この七重八重の歌を太田道灌に結びつけて有名になったのは『常山紀談』や『雨中問答』といった江戸中期の書によるものらしい。(レファレンス事例詳細による)
 まあ、とにかくたくさんの花が咲いている正午の庭で、簫を演奏したくなったのだろう。
 三十四句目。

   十重二十重花のかげ有午時の庭
 杉菜一荷をわける里人       芭蕉

 「一荷」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 天秤棒(てんびんぼう)の両端にかけて、一人で肩に担えるだけの荷物。」

とある。
 「杉菜」は同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 シダ植物トクサ科の多年草。各地の平地や山地の日当たりのよい草地や裸地に生える。地上茎には胞子茎と栄養茎の別があり、一般に前者を「つくし」、後者を「すぎな」と呼ぶ。胞子茎は早春地表に出て、先端に肉色または淡褐色で太い長楕円形の胞子嚢穂を単生するが、胞子散布後すぐ枯れる。栄養茎は胞子茎より遅れて地表に現われ、鮮緑色で茎の上部の節に線形の枝を輪生する。節には葉が互いに密着して鞘状となった長さ五ミリメートルくらいの葉鞘があり、節間には多数の隆条と溝がある。若い胞子茎はゆでて食用とし、また、全草を利尿薬に用いる。漢名、問荊。《季・春》 〔文明本節用集(室町中)〕
  ※寒山落木〈正岡子規〉明治二六年(1893)「すさましや杉菜ばかりの岡一つ」

とある。
 土筆が食用なのに対して、杉菜は問荊(もんけい)と呼ばれ、薬用に用いられていた。また、杉菜の若いものは食用にもされていた。
 三十五句目。

   杉菜一荷をわける里人
 鳩の来て天窓にとまる世の長閑   亨子

 鳩が平和のシンボルだというのは旧約聖書に基づくもので、日本に特にそういう考え方はなかった。ただ、別に鳩でなくても、鳥は一斉に飛び立ったりしなければ長閑なものだ。
 天窓の辺りはおそらく鳩が巣を作ることが多く、里人は健康で鳥もまた安心して暮らせるという長閑な春をもってこの一巻の締めくくりになっているのではないかと思う。
 挙句。

   鳩の来て天窓にとまる世の長閑
 馳走の雑煮はこぶ神垣       皷蟾

 最後は正月の目出度さに神祇を加え、天下泰平を喜び、この一巻は終わる。

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