ネットで見つけた井本農一の文章で「芭蕉の発句について」というのを見つけた。
井本さんは一応近代俳句的芭蕉研究の第一人者とも言われる人で、ざっと読んでみたが、なるほど、俳諧興行の発句をあえて「立て句」と呼んで、近代俳句に通じる単独で詠む「発句」とを分断しようという作戦に出たか、という感じだ。
これだと、
木のもと汁も膾もさくらかな 芭蕉
むめがかにのつと日の出る山路かな 同
といった句は立て句ということになる。まあ、立て句の中にも文学的な句はあると一応予防線は引いてある。
ただ、島崎藤村を引き合いに出して、
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
を例に挙げたのは失敗だろう。この句は元禄七年九月二十九日の芝柏(しはく)亭での興行の発句としてつくられたもので、たまたま病状の悪化によって中止になっただけのものだ。
まあ、とにかく立て句が文学的でない何てことはないし、興行に用いられてないものがことごとく名句というわけでもないだろう。そんなにまでして「文学」と連句を切り離したいのかという執念以外の何も感じられない。はい論破。
それでは「しほらしき」の巻の続き。挙句まで。
四十一句目。
なげの情に罰やあたらん
しどろにもかたしく琴をかきならし 致益
「しどろ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (形動) 秩序がなく乱れていること。乱雑であるさま。
※後拾遺(1086)恋一・六五九「あさねがみみだれて恋ぞしどろなるあふ由もがな元結にせん〈良暹〉」
※太平記(14C後)二一「騎馬の客三十騎計、馬の足しどろに聞えて」
とある。
「かたしく」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「[動カ四]《昔、男女が共寝をするときには、互いの衣服を敷き交わして寝たことに対していう》自分の衣服だけを敷いて、独り寂しく寝る。
「狭筵(さむしろ)に衣―・き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」〈古今・恋四〉」
とある。一人寂しく感情にまかせて乱雑に琴を掻き鳴らし、何の罰(ばち)にあたるのか、となる。
『源氏物語』の須磨巻の、
「御前にいと人すくなにて、うちやすみわたれるに、ひとりめをさまして、枕をそばだててよものあらしをきき給ふに、なみただここもとに立ちくる心ちして、なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。
琴(きん)をすこしかきならし給へるが、我ながらいとすごうきこゆれば、ひきさし給ひて、
恋ひわびてなくねにまがふ浦波は
思ふかたよりかぜやふくらん
とうたひ給へるに」
(お側で待機する人もまばらな部屋で早々に寝入ったものの一人目が醒めてしまい、枕を縦にして身をやや起こして周囲で吹きすさぶ嵐の音を聞くと波があたかもここまで押し寄せてくるような錯覚にとらわれ、涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。
七絃琴をすこしばかりかき鳴らしてはみるものの、自分でもあまりに悲しげな音色なので曲を途中で止めて、
♪報われぬ恋に泣いてる浦波は
都から吹く風によるのか
とうたひ給へるに)
の場面であろう。
四十二句目。
しどろにもかたしく琴をかきならし
はなに暮して盞を友 觀生
花の定座を一句繰り上げて、琴に花を付ける。盞は「さかずき」。隠士の句とする。
四十三句目。
はなに暮して盞を友
うぐひすの聲も筋よき所あり 曾良
盃を友として一人飲んでいると、芸妓が欲しいところだが、いるのは鶯だけで、その鳴き声を筋がいいと褒める。
挙句。
うぐひすの聲も筋よき所あり
うららうららやちかき江の山 北枝
「うらら」は「麗(うらら)か」から来たもので、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「〘形動〙 (「か」は接尾語)
① 空が晴れて、太陽が明るくのどかに照っているようす。春の日をいう場合が多い。うらうら。うらら。《季・春》
※宇津保(970‐999頃)俊蔭「いみじうたかくふる雪、たちまちにふりやみて、日いとうららかにてりて」
② 声が明るくほがらかなさま。
※源氏(1001‐14頃)胡蝶「うぐひすのうららかなる音(ね)に、鳥の楽はなやかにききわたされて」
③ (心中に隠すところがなく) さっぱりとしたさま。のどやかにはればれしたさま。さわやか。
※浜松中納言(11C中)四「隔てなう、うららかにうち解け給へれど」
入り江に山もほのかに霞み、鶯もなく長閑な景色をもって一巻は終了する。
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