昨日は方方の『武漢日記─封鎖下60日の魂の記録』が届いたので、旧暦一月の終わりまで読んだ。
日本ではロックダウンがなかったというか法的にできなかったし、初期の頃の感染を疑う市民が病院に殺到して医療崩壊を起こすということも幸いなことになかった。
何となくぬるま湯で過ごしてしまった第一波、第二波を思うと、あらためて武漢がどんなに悲惨なことになっていたか、考えざるを得ない。
読んでいけば、そのころ日本に伝わってきたいろいろな情報が思い起こされる。思った以上に日本には正確な情報が入っていたのだろう。驚くような新事実は書かれてなかった。
まあ、中国語のできる人は日本でもリアルタイムで読めただろうし、その後英訳もネットで公開されていたというから、不思議なことではない。
この本は確か初夏には日本語訳が出るはずだったが、いつのまにか河出書房新社のページが消えていて、さては何か圧力がと思っていたが、今頃になってひっそりと出版された。
相変わらずコロナはただの風邪だという人はいるが、それならばこの本に描かれた幾多の悲しみはいったい何だったのだろうか。いつか日本人にもわかる日は来るかもしれないが、来ないことを願いたい。
それでは「ぬれて行や」の巻の続き。
三十一句目。
病の癒て歩行はつ雪
一度は報ひ返さん扶持の礼 北枝
扶持(ふち)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「封建時代の武士が主君から与えられた俸禄。鎌倉~室町時代には土地と百姓を与えるのが原則であったが,戦国時代,米を給与する方法が起り,江戸時代になると,武家の離村が進んで城下町に居住するようになり,所領を米に換算する方法が一般化した。特に蔵米取 (→蔵米 ) の者に対して行われた給与方法をさすようになった。1人1日5合の食糧を標準 (一人扶持と呼ぶ) に1年間分を米や金で与える方法が普通で,下級の旗本,御家人,諸藩では下級武士に,身分に応じて何人扶持と定めて,広く行われた。また武士だけでなく,特殊な技能者なども何人扶持でかかえるという方法が行われたり,幕府,諸藩に尽力した商人,百姓にも与えられた。」
とある。
前に読んだ元禄七年春の「五人ぶち」の巻の発句、
五人ぶち取てしだるる柳かな 野坡
のところでは、「一人一日五合の米を一年分というのが一人扶持だった。五人扶持は家族が何とか生活していけるだけの最低賃金といったところか。」と書いた。
その扶持に報いようと雪の中を歩み出る。いざ鎌倉のようなことか。
三十二句目。
一度は報ひ返さん扶持の礼
あなかま鼠夜の戸障子 曾良
「あなかま」は『源氏物語』帚木巻で、雨夜の品定めのあと家に戻ってくつろいでいるときに、「あなかまとて、けふそくによりおはす。」というふうに出てくる。「あな、かしまし」の略で「あー、うるさっ」あるいは「あー、うざっ」といったニュアンスだろうか。
ここでは扶持の礼に報わなくてはと思うものの、たいした扶持はもらってないのだろう。戸や障子では鼠が走り回っている。
三十三句目。
あなかま鼠夜の戸障子
侘しさに心も狭き蚊帳釣て 芭蕉
二十五句目の「心角折て」とかぶるような「心」の使い方だ。蚊帳が物理的に狭いだけでなく、貧しさに心も狭くなる。
物理的なものに「心」を付けて精神性を付け加えるやり方は、
義朝の心に似たり秋の風 芭蕉
に倣ったものか。
三十四句目。
侘しさに心も狭き蚊帳釣て
かみ切る所を夫はおさゆる 塵生
七十年代くらいだと「髪を切る」というのが失恋の意味で用いられたが、この時代は出家して縁切寺に駆け込もうということだろう。夫(つま)の心の貧しさに耐えかねてということか。
三十五句目。
かみ切る所を夫はおさゆる
入山のいばらに落しうき泪 曾良
髪を切るから当然山号のあるお寺に入るわけだが、そこはいばらの道でもある。
三十六句目。
入山のいばらに落しうき泪
霜に淋しき猿の足跡 北枝
仏道に入る身もつらいが、霜枯れで食うものも少ない猿もさぞかしつらかろう。
とまあ、やはり単純な道徳とわかりやすい人情の句が続き、蕉門らしい乾いた笑いは見当たらない。
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