大坂なおみさんの全米OP2度目の優勝は良いニュースだったが、マスコミはテニスそっちのけだ。
あのマスクは被害者の名前を記してだけで、それをどう受け止めるかは見る人にゆだねられている。一定の政治的主張に誘導するものではないので、そこは間違えない方がいい。それが公式試合の場でできるぎりぎりの線だったのだろう。
差別はいけないというのは普遍的な主張で、それ自体は一定の政治的立場に立つものではない。ただ、誰が悪いだとか、何をどうすればということになると、その方法を廻って結局分断されてしまう。平和に賛成というのも同じだ。戦争反対も核のない世界をもわかる。ただそれが、誰が悪いだとかどこの国が悪いとかそういうことになると分断されてしまう。
各自それぞれの主張はあるだろう。ただ、スポーツ競技の場ではそれを押し付けてはいけないし、報道する場合も気をつけてほしい。
それでは「ぬれて行や」の巻の続き。挙句まで。
四十五句目。
汗は手透に残る朝風
問丸の門より不二のうつくしく 塵生
「問丸」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「鎌倉から戦国時代,港町や主要都市で,年貢運送管理や中継ぎ取引に従事した業者。平安時代末期の頃から淀,木津,坂本,敦賀など荘園領主の旅行にあたって船などを準備する問丸がみられた。鎌倉時代になると荘園の年貢米の運送,陸揚げ,管理にあたる問丸が出現し,荘園領主から得分 (問給,問田) を与えられていたが,次第に商業的機能を帯び,やがて独立の業者となった。貢納物の販売にあたって手数料として問料 (といりょう) を取り,さらに貢納物から商品の取引を専門とするようになった。戦国時代の問丸には,港町の自治を指導し,外国貿易に参加する豪商が出たり,ついには運送などの機能を捨て,純粋な卸売業となり,配給機構の中核を構成するようになった。 (→問屋 ) 」
とあり、「問屋(とんや)」だと、
「「といや」ともいう。江戸時代の卸売業者。鎌倉,室町時代には問,問丸 (といまる) といわれた。江戸時代,運送や宿泊については専業者ができたので,問屋の営業内容はもっぱら商品の取扱いだけとなった。問屋の種類もいろいろあり,荷主の委託を受け,一定の口銭を取って貨物を仲買人に売りさばく荷受問屋,特定の商品を取扱う専業問屋などがあった。さらに仕切込問屋と称する専業問屋もあって,荷主から商品を買取り,損益は自己負担で仲買に売渡すものであった。これらは,多く株仲間を組織し,共通の利害のもとに団結した。大坂の二十四組問屋,江戸の十組問屋 (とくみどんや) などが有名である。天保の改革後,廃止され,のち復活したが,明治になって卸売商人一般の呼称となった。なお江戸時代に問屋場の業務を司った宿場役人も問屋 (または問屋役) と呼ばれた。」
今日では「卸売商人一般の呼称」だが、時代によって変遷がある。芭蕉の時代だと「問屋」だろうけど、あえて古い「問丸」という言葉を用いている。句を古く見せるためか。
前句の「手透」を問屋の従業員の姿としたか。富士の景を付ける。
四十六句目。
問丸の門より不二のうつくしく
鰤呼頃も都しづけき 芭蕉
ブリは関西では正月の魚になっている。昔のことだから生ではなく塩漬けにして運んだのだろう。関東では鮭が主流だった。
ただ、京都からは富士山は見えないし、師走なのに何で都が静かなのかよくわからない。
四十七句目。
鰤呼頃も都しづけき
長生は殊更君の恩深き 北枝
都だから君は天皇のことだろう。こうして長生きできるのも皇朝の御威光というところか。
この辺りから早々としめに入ったか、お目出度い題材を出す。
四十八句目。
長生は殊更君の恩深き
賤が袴はやれるともなき 曾良
皇朝の御威光は賤民にまで及び、豊かな民は破れた袴をはくこともない。
四十九句目。
賤が袴はやれるともなき
はつ花は万才帰る時なれや 芭蕉
これは、
山里は万歳遅し梅の花 芭蕉
であろう。とはいえ、これは元禄四年の句。前句の賤を門付け芸人とする。
挙句。
はつ花は万才帰る時なれや
酒にいさめる宿の山吹 塵生
万才の門付け芸人に酒をふるまい元気づけて帰してやる。
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