昨日の大坂なおみさんに続いて、国枝慎吾さんも優勝ということで、日本凄い、日本人である俺も凄いって、誰も突っ込まないね。でも、そう思うって悪いことじゃないと思う。みんなに希望を与えるのがスポーツなのだから。大坂なおみさん凄い、国枝慎吾さん凄い、お前はクズ、じゃ救いようないもんね。ひょっとしたら凄くなれるかもしれないくらいには思わせてくれなくちゃ。
この二人はそのうち国民栄誉賞をもらったりするのかな。その時の首相が誰かは知らないが。
まあ冗談はこれくらいにして、俳諧の方に移ろう。
芭蕉の旅はまだ続くということで、このあと芭蕉と曾良と北枝は実盛の甲を見た後、山中温泉に向かう。ここで曾良は二人と別れ、伊勢長島に向かう。山中三吟「馬かりて」の巻はその時の曾良への餞別だった。鈴呂屋書庫にかなり前に書いた「馬かりて」の巻の解説があるのでよろしく。
ここから先の芭蕉の動向は当然ながら曾良の『旅日記』や『俳諧書留』にはない。ふたたび小松に戻り、実盛の甲のところで詠んだ発句で、皷蟾、亨子との三吟興行を行っている。
それでは発句。
あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉
後に『奥の細道』に収録されるときには「あな」の二字を抜いて普通の五七五の形にしている。これについては『去来抄』に、
「魯町曰、先師も基より不出風侍るにや。去来曰、奥羽行脚の前にはまま有り。此行脚の内に工夫し給ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすと云ふ句あり。後にあなの二字を捨てられたり。」
とある。
「あなむざんやな」は謡曲『実盛』の「あな無残やな。斎藤別当にて候いけるぞや。」からとったもので、謡曲の言葉をそのまま用いている。延宝五年の、
あら何共なやきのふは過ぎて河豚汁 芭蕉
のような用法で、この「あら何共(なんとも)なや」も謡曲『芦刈』の一節を拝借している。
俳諧は雅語で作る連歌に俗語を取り入れてできたものだが、談林時代には雅語の文芸である和歌や連歌に即した体だけでなく、謡曲調や漢文書き下し文調や様々な文体を試している。
寛文五年伊賀での貞徳十三回忌追善俳諧の三十三句目も、
未だ夜深きにひとり旅人
よろつかぬほどにささおものましませ 蝉吟
の句がある所から、こうした試みは談林の流行前から少しづつ行われていたのであろう。
芭蕉の蕉風確立期でも、こうした異体は試みられていたが、猿蓑調以降は影を潜めてゆく。
小松で斉藤別当実盛の冑を見ての想像であろう。加賀篠原の合戦で木曾義仲の軍と戦い戦死した時の情景を思い起こし、倒れ伏した実盛の顔の所にコオロギが這っては鳴く様を思い描いたのだろう。
一応前にも書いたが、キリギリス→コオロギ、コオロギ→カマドウマとなる。カマドウマ→コオロギになる。
脇は「ぬれて行や」の巻で脇を詠んだ亨子が付ける。
あなむざんやな冑の下のきりぎりす
ちからも枯し霜の秋草 亨子
きりぎりすに霜枯れの秋草を添え、「ちからも」とすることで、枯れるのは秋草だけでなく実盛もまた力の枯れてゆくとする。
第三は「しほらしき」の巻で脇を務めた皷蟾(こせん)が詠む。
ちからも枯し霜の秋草
渡し守綱よる丘の月かげに 皷蟾
渡し船の船頭は丘の梺の家で月明かりを頼りに綱を縒る。この船頭も老いて頭に霜を戴いているのだろう。その手つきもどこか力ない。霜枯れの秋草のようだ。寂び色がよく表れている。
やはり「ぬれて行や」の後半部分とは違う、これが蕉門だという句だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿