2020年9月20日日曜日

  今日は曇りで小雨も降った。急に涼しくなった。
 昨日の渋滞はひどかった。コロナの新規感染者が底打って上昇に転じる兆しがあるのに、緩んでいる。
 マスクは感染を防げなくても重症化を防ぐ効果があるらしい。これから涼しくなるし、マスクはちゃんとしよう。
 コロナは「おもてなし」の質を考え直すきっかけにもなるのではないかと思う。金の力で王様気分になるというゆがんだ優越意識を与えるのではなく、対等な人と人とのおもてなしを考えていかなくてはいけないと思う。サービス業全体が今後再編されてゆくことになる今がそのチャンスだ。
 それでは「あなむざんやな」の巻の続き。

 二十三句目。

   つづけてかちし囲碁の仕合
 暮かけて年の餅搗いそがしき    亨子

 前句の「仕合(しあはせ)」を試合のことではなく「幸せ」に取り成す。
 囲碁の試合に勝ち続けて大金を手にしたのだろう。大勢の人に餅をふるまおうと人を集めて、忙しい年の暮となった。
 二十四句目。

   暮かけて年の餅搗いそがしき
 蕪ひくなる志賀の古里       皷蟾

 滋賀県も蕪の産地だが、この場合は石川県志賀町の方だろうか。金沢では正月にかぶら寿司を食べる。
 二十五句目。

   蕪ひくなる志賀の古里
 しらじらと明る夜明の犬の聲    芭蕉

 ひなびた里に犬の声を添える。陶淵明の『歸園田居五首(其一)』の「狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓」によるものか。
 二十六句目。

   しらじらと明る夜明の犬の聲
 舎利を唱ふる陵の坊        亨子

 謡曲『舎利』によるものか。
 舎利は仏様の遺骨のことで、旅の僧が都の泉涌寺の仏舎利を拝んでいると、足疾鬼という外道が舎利を奪ってゆく。僧が祈ると韋駄天が現れてそれを取り返す。
 東山の麓にある泉涌寺のホームページには、

 「仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山陵が当寺に造営された。その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山陵境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。」

とある。ここでは旧暦九月八日に舎利会が行われていた。謡曲も舎利会をモチーフにしたものであろう。
 「陵(みささぎ)」といえば、「ぬれて行や」の巻の二十句目にも

   夜もすがら虫には声のかれめなき
 むかしを恋る月のみささぎ     斧卜

の句があった。
 二十七句目。

   舎利を唱ふる陵の坊
 竹ひねて割し筧の岩根水      皷蟾

 泉涌寺は東山の麓だから、竹で作った筧で山から水を引いていたとしてもおかしくない。名前からして泉が涌く寺だし。
 二十八句目。

   竹ひねて割し筧の岩根水
 本家の早苗もらふ百姓       芭蕉

 前句を苗代水としたか。苗は本家の敷地でまとめて作られていて、分家がそれをもらいに来るというのはよくあることだったか。芭蕉も農人の出だから、幼少期の経験なのかもしれない。
 二十九句目。

   本家の早苗もらふ百姓
 朝の月囲車に赤子をゆすり捨    亨子

 「囲車」は宮本注に「不詳」とあり、読み方も書いてない。
 一つの推測だが、これは「ねこ」ではないか。
 手押しの一輪車に箱を乗せた、運搬用のいわゆる猫車なら、意味は通じる。
 三十句目。

   朝の月囲車に赤子をゆすり捨
 討ぬ敵の絵図はうき秋       皷蟾

 ひょっとして「子連れ狼」は実在した?
 猫車に赤子を乗せて、人相書きを見ながら仇討の旅を続ける武士という発想自体は、当時もあり得たということか。

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