今日も一日雨が降った。
BLMだが、日本語に訳すなら「黒人の死活」がいいのではないか。死活問題の問題の省略だが、ここにマターが含まれている。
人種差別に限らず、あらゆる差別の根底には「わからないものへの恐怖」があると思う。この恐怖は原始的には一種の神とみなされ、鬼神と同様「敬して遠ざける」の対象となった。折口信夫のいう「マレビト歓待」もこうした一種の神としての対応だったと思う。もちろん現実的には異民族をひどい目に合わせると後、で仲間を引き連れて攻めてきて、最悪の場合村が焼き払われ殲滅させられる危険もあっただろう。
恐怖が薄れてくると、遠ざけるという行動だけが残る。そこでいわゆる「いじり」というのが始まる。いじりは相手の反応を試すというのが基本にあり、一種の探索行動だと思う。つまり、あれを言えば笑って流すだけで済むし、それを言えばかなりムッとする、これを言えば激怒するというのを確認して、どこまでが大丈夫かを見極める作業が根本にある。
いじりで済んでいるうちは、差別はそれほど深刻なものにはならない。最初はわからないからやっているから、限度を越えることもあるが、ここまでするとヤバイというのがわかれば、自ずと冗談で済む範囲に落ち着く。人権派の人たちはこのレベルでも差別として問題視し、法規制が必要だと考えているようだが、これを禁ずると、そもそも相手がどういう人なのか確認する手段がなくなってしまうから、相手への正確な認識や理解が困難になる。仲が良いほど喧嘩するというのは、この段階が人間の相互理解に必要だからだ。
いじりといじめとの間には一つ大きな飛躍がある。いじめは集団に溶け込ませるための理解を促すものではなく、むしろ排除の開始となる。
排除は基本的に人間が生存競争にさらされている限りなくならないもので、有限な大地の有限な生産力に対し人口が増え続ければ、必ず誰かを排除しなくてはならない。多くの動物は一対一での力関係で弱い者から排除される。これを順位制社会と呼ぶ。人間は弱くても力を合わせればどんな強い者にも勝てるということを知ってしまったから、生存競争が順位の争いではなく多数派工作の戦いになってしまった。ここから仲間を思いやる気持ちが進化すると同時に、仲間でない者に対しては(仲間を守るという名目で)どんな残虐な仕打ちもできるようになった。
差別が過酷になり死活になるには、単に未知な相手への恐れというだけでは不十分で、それに生存競争による排除の原理が働いたとき人は異質なものに対し残虐になる。ここの一線は重要だ。
日本で黒人が差別されているといっても、その多くはいじりのレベルで留まっている。
差別は排除の原理が働く限り、個人の問題ではなく集団の問題になる。人間が生存戦略として多数派工作を行ったさい、その多数派集団から排除されたものが差別の対象になる。それは集団のルールの問題であり、個人の良心を越えたものになる。
つまり、いくら個人的には友人で差別をしてはいけないと分かっていても、集団の圧力には抗しがたいという事態が生じる。内戦の状況下ではたとえ古くからの親友であっても過激派組織に引き渡さなければならないという悲惨な事態も生じる。引き渡せば殺されると分かっていても、それをしなかったら自分のみならず自分の家族も命の危険にさらされるという究極の選択だからだ。
かつての南アフリカでのアパルトヘイトの問題は集団の問題であることがわかりやすかった。だが、今のアメリカの人種差別は違う。白人の多くがBLMデモに参加することで、どの集団が排除を行っているかを見えにくくしている。
個人としてはデモに参加してアリバイ作りはできても、普段の生活に戻った時に彼らはどういう集団に所属しているのだろうか。個人としては差別に反対でデモをやって声も上げているが、実際日常生活の中で彼らはそれを貫いているのだろうか。彼らが二重の生活をしているとするなら、差別の根っこはそこにある。
それでは「舞都遲登理」の続き。
「長老坂手前に、西行戻。をしまの内に、坐禪堂・石灯籠 南村宗仙寄進。
骨堂ニ地蔵、奥院是也。見佛上人碑、銘有。鎌倉巨福山越長寺一山和尚筆也。此石鎌倉より下ル、高一丈一尺・横三尺五寸・厚一尺。松嶋海而殺生禁斷。」(舞都遲登理)
「長老坂」は利府から松島に入る今日の県道144号線の辺りの坂道で、その途中に西行戻しの松公園がある。
西行戻しというのは、おそらく西行に松島を詠んだ歌がなかったことで、後から生まれた伝承であろう。
聖護院門跡准后道興の長享元年 (一四八七年) 成立の『廻国雑記』に、既に「西行がへり」と呼ばれる場所があったことが記されている。
今日に知られている伝承は、西行が「あこぎ」の意味を知らなくて恥じて帰ったというものと、もう一つは西行戻しの松のところの松島町教育委員会の説明板にある説で、
「歌人西行(1118~1190)がこの地にて「月にそふ桂男(かつらおとこ)のかよひ来てすすきをはらむは誰(た)が子なるらん」と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて「雨もふり霞もかかり霧も降りてはらむすすきは誰れが子なるらん」と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業(なりわい)をしているのか聞くと「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味が分からなかった。童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。」
とのことだ。
西行が詠んだと言っている、
月にそふ桂男のかよひ来て
すすきをはらむは誰が子なるらん
の歌は月には巨大な桂の木があって、それを刈る桂男がいるという伝承に掛けて、月の日に通ってくる男が薄の中でひっそりと暮らす女をはらませた、そいつは誰なんだという歌で、おそらく民間に伝わる春歌のようなものだろう。まあ、はらませたのは自分ではないという言い訳の歌だろう。
それに対する童子の歌は、
雨もふり霞もかかり霧も降りて
はらむすすきは誰れが子なるらん
だが、雨や霞や霧で月のない夜もあったというのに誰の子をはらんだんだ、おまえだろ、というもので、そんなに機知に富んだ返しとも思えない。それにここは「だれが子なるらん」ではなく「たがこなるらん」と雅語で応じてほしい。
それに「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としているといるという謎々も別にちょ~難問というわけではない。本物の西行法師なら瞬殺だろう。
雄島の座禅堂は『奥の細道』に、
「雄嶋が磯は地つゞきて海に出いでたる嶋也。雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、坐禅石など有。」
とある。曾良の『旅日記』には、
「御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。」
とある。「一山ノ碑」は「見佛上人碑、銘有。鎌倉巨福山越長寺一山和尚筆也。」のことだろう。島の南の方にあり、今は奥州御島頼賢碑と呼ばれ、六角形の鞘堂で囲って保存されている。
宮城県のホームページには、
「この碑は、徳治2年(1307)に松島雄島妙覚庵主頼賢の徳行を後世に伝えようと弟子30余人が雄島の南端に建てたものである。板状の粘板岩の表面を上下に区画し、上欄には縦横おのおの7.8cmに一条の界線で区切り、その中央よりやや上に梵字の阿字を大きく表わし、その右に「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘并」と楷書で記してある。下欄には、縦1.68m、横0.97mに一条の界線をめぐらし、その中に18行643字の碑文が草書で刻まれている。
また、碑の周囲には雷文と唐草文、上欄と下欄の問には双竜の陽刻を配している。
碑文は、松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の10世で、唐僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名である。」
とある。頼賢は見仏上人の再来といわれた僧らしい。
さて、その碑の寸法だが、松島町のホームページに「高さ3.5m、が下部1.1m、中央部1.05m、厚さは約20cm。」とある。
桃隣の「舞都遲登理」の「高一丈一尺」は約3.4メートル、横三尺五寸は約1メートル、厚一尺は約30センチ。まあ、大体あっている。扇での採寸にしては正確といったところか。
「松嶋海而殺生禁斷」というのはここが伊勢の阿漕が浦と一緒だということで、西行戻しの「阿漕が浦」の方の話はそこから生まれたのもかもしれない。
あと、さっきの謎々だが、冬に芽が出て夏に収穫するのだから答えは麦作農家。
「瑞巌圓福禪寺、妙心寺末寺 紫衣、改て瑞岩寺、仙臺城主菩提所。
右ニ陽德院、左に天麟院、何も紫衣。
瑞岩寺仲ニ松嶋根深の松とて、古キ松一本有。庭ニ雙梅。額、虎關の筆、方丈の記也。
松嶋眺望 五十七嶋、四十八濱、二十二浦、三十一崎、外ニ金花山・富ノ山。」(舞都遲登理)
瑞巌寺はウィキペディアに「山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。」とある。「右ニ陽德院、左に天麟院」今もその位置にある。陽徳院は慶安三年(一六五〇年)に開創され、現在は非公開。天麟院は万治元年(一六五八年)の創建といわれている。
紫衣はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「紫色の袈裟(けさ)および法衣の総称。古くは勅許によって着用した。紫甲。しい。」
とある。
根深の松は不明。
雙梅は臥龍梅のことか。瑞巌寺のホームページに、
「政宗公が朝鮮出兵の際に持ち帰り、慶長14年(1609)3月26日、瑞巌寺の上棟祝いにお手植えしたと伝わる紅白の梅です。」
とある。
「額、虎關の筆」も不明。虎關は虎関師錬(こかんしれん)のことだろう。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧だが、瑞巌寺との関連はよくわからない。
松嶋眺望 五十七嶋とあるが今では二百六十余の島があるとされている。金華山は松島湾の外側にあり、石巻の先の突き出たところにある。富山は瑞巌寺の辺りから北東の方角にある山で富山観音堂がある。
「松嶋辨 芭蕉翁
抑松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を耻ず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。
島々の數を盡して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に疊みて、左にわかれ、右につらなる。屓るあり、抱くあり、兒孫愛するがごとし。松のみどりこまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、窟曲をのづからためたるがごとし。其氣色、窅然として美人の顔を粧ふ。千早振神の昔、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を盡ん。予は口を閉て、窓をひらき、風雲の中に旅寢するこそ、あやしきまでたへなる心地はせらるれ。
〇松嶋や鶴に身をかれ郭公 曾良
〇松嶋や五月に來ても秋の暮 桃隣
〇松嶋や嶋をならべて夏の海 助叟
〇橘や籬が嶋は這入口 桃隣
〇橋二ッ滿汐凉し五大堂 仝
〇月一ッ影は八百八嶋哉 仙化」(舞都遲登理)
この松島弁は素龍本の『奥の細道』にくらべると「抑(そもそも)」のあとの「ことふりにたれど」が欠落しているが、芭蕉自筆本にも同様の欠落がある。桃隣は初期の稿本を読んでいたのだろう。それ以外は「筆をふるひ、詞を盡ん。」まではほぼ一致する。「抱るあり」が「抱くあり」になっているが、これは桃隣の書き間違いだろう。
そのあとの部分の「予は口を閉て」は『奥の細道』の曾良の句の後に「予は口を閉て眠らんとしていねられず」から取ったもので、「窓をひらき、風雲の中に旅寢するこそ、あやしきまでたへなる心地はせらるれ。」は「二階を作りて」が欠落しているが、曾良の句の直前にある。「雄島が磯」の辺りを大幅にカットして、うまいこと切りつないで短縮バージョンになっている。ひょっとしたら『奥の細道』に先立つ「松島弁」が存在していたのかもしれない。
さて、発句だが、
松嶋や鶴に身をかれ郭公 曾良
この句は有名すぎるから別にいいだろう。
松嶋や五月に來ても秋の暮 桃隣
これは曾良の句の影響を受けて、あえて松島にふさわしい季節外れの景物を持ってきたのだが、秋の暮‥‥うーん。
松嶋や嶋をならべて夏の海 助叟
これはそのまんまだが、
島々や千々にくだけて夏の海 芭蕉
の句に比べると今一歩。
橘や籬が嶋は這入口 桃隣
確かに仙台側から来ると最初に見るのは籬が嶋だ。
橋二ッ滿汐凉し五大堂 桃隣
今は橋を三つ渡るが、昔は二つだったか。五大堂には橋を渡ってゆくというネタに滿汐凉しを放り込んだといえばそれまでの句。
月一ッ影は八百八嶋哉 仙化
仙化は貞享の頃からの芭蕉の江戸の門人で、『陸奥衛』の巻頭の俳諧百韻でも桃隣、其角、嵐雪らと名前を連ねている。
たくさんの島があってもそれを照らす月は一つだけ。この句だけ秋の句で、この旅に同行していたわけでもないから、別の時に作った句だろう。
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