今日は暖かかった。山は霞んで春のようだった。
それでは「日の春を」の巻の続き。
第三。
砌に高き去年の桐の実
雪村が柳見にゆく棹さして 枳風
枳風(きふう)は江戸の人で、これより後のことになるが、元禄五年、『奥の細道』の旅の後しばらく近江など関西で過ごした芭蕉が再び江戸に来た時、杉風と枳風が出資して第三次芭蕉庵を建てたという。
『初懐紙評注』には、
「第三の体、長高く風流に句を作り侍る。発句の景と少し替りめあり。柳見に行くとあれば、未景不対也。雪村は画の名筆也。柳を書べき時節、その柳を見て書んと自舟に棹さして出たる狂者の体、珍重也。桐の木立詠やう奇特に侍る。付やう大切也。」
とある。「長高く」は今の言葉ではうまく表現しにくいが、力強くと格調高くを合わせた感じか。「居丈高」という言葉に「たけたか」は生き残っているが、もとは背が高いことからきている。それが高い所から物を言うという意味になった。
紹巴の『連歌教訓』には、
「第三は、脇の句に能付候よりも長高きを本とせり、句柄賤しきは第三の本意なるべからず、」(『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.264)
とある。
発句が新年の句だったのに対し、柳は仲春から晩春の景になる。「未景不対也」というのは、秋から残っている桐の実に春の柳を対比させる「相対付け」とするには、まだ「見にゆく」段階で柳そのものを出していないので成り立たない。
雪村は室町後期から戦国時代にかけての絵師で、雪舟をリスペクトしていたが、雪舟の亡くなった頃に生まれているため、直接的なつながりはない。尾形光琳に影響を与えたが、尾形光琳が活躍するのはもう少し後のこと。
雪村が自ら舟を漕いで柳を見に行くというあたりに風狂が感じられる。「砌(みぎり)」は発句に対しては「その時まさに」という意味で用いられていたが、ここでは「水際」の意味になり、そこから「棹さして」を導き出している。
四句目。
雪村が柳見にゆく棹さして
酒の幌に入あひの月 コ斎
コ斎はよくわからないが、其角の弟子のようだ。この頃の興行にはよく登場する。
『初懐紙評注』には、
「四句目なれば軽し。其道の様体、酒屋といつもの能出し侍る。幌は暖簾など言ん為也。尤夕の景色有べし。」
とある。
四句目は軽く遣り句するのを良しとする。これは発句から第三までを引き立たせるためと、前半で句を滞らせないためと、いろいろ理由がある。
前句の風狂の体から酒を導き出し、酒屋の暖簾を「酒の幌(とばり)」と言い表す。雪村が酒の酔いに任せて夕暮れの月に舟を出して柳を見に行ったとする。
五句目。
酒の幌に入あひの月
秋の山手束の弓の鳥売ん 芳重
月が出たところで季節は秋になる。芳重がどういう人かはよくわからない。
『初懐紙評注』には、
「狩の鳥を得て市に持出て売体さも有べし酒屋に便りたる珍重の付様也。手束の弓は短き弓也。」
とある。
「手束(たつか)の弓」はコトバンクのデジタル大辞泉の解説によれば、
手に握り持つ弓。たつかの弓。
「―手に取り持ちて朝狩(あさがり)に君は立たしぬ棚倉(たなくら)の野に」〈万・四二五七〉
とある。軍(いくさ)に用いる馬上で射るための長い弓ではなく、手に持って携帯でき、物陰に隠れて獲物を狙えるような短い弓と思われる。
猟師が射た鳥を酒屋に酒の肴にと売りに来る。
六句目。
秋の山手束の弓の鳥売ん
炭竃こねて冬のこしらへ 杉風
杉風は言わずと知れた人で、知らない人はぐぐってみよう。
『初懐紙評注』には、
「前句ともに山家の体に見なして付侍る。猟師は鳥を狩、山賤は炭竃を拵て冬を待体、別条なき句といへども炭竃の句作、終に人のせぬ所を見付たる新敷句也。」
とある。
山奥では猟師は鳥を売りに行き、山賤は木炭を作って冬に備えるとなる。「炭竃」を出すあたりに、当時の芭蕉は新味を感じていた。
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