2018年1月10日水曜日

 人は生まれながらにして顔かたちが違ったり、背の高い低いがあったり太りやすい太りにくいがあったり、禿げやすい禿げにくいだとか大食いだとか少食だとかいろいろな違いがある。違うのは別に肌の色や目の色や髪の色に限ったことではない。人間は生まれながらにして一人一人みんな違う。日本人だからと言ってみんな直毛黒髪というわけでもない。
 生まれながらに多様な人間は、育つ環境や文化の違いでまた更に多様になる。
 精神の多様性というのは脳の発達過程が環境と資質との複合によってみんな異なるところから生じる。同じものを見ても感じ方はみんな違う。それは人はただ物を見るのではなく、それを様々な記憶と照らし合わせて、その意味を読み取るからだ。記憶は一人一人みんな違う。何を連想するかは人によって違う。連想された記憶を結びつけてそこからどういう思考を導き出すかもみんな違う。だから同じ物を見ても、みんな違った考え方をする。
 さらに、個々の人間の特有な体験から、ある種の物には脳内快楽物質を刺激する特有の回路が形成される。花に異様に興味を持つ人がいたり、山を見ることに異様な快楽を覚える人がいたり、人間の思考回路は決して一様ではない。何に興味を持つか、何に心地よさを感じるのか、何に癒しを感じるのか、みんなそれぞれ違う。
 一枚の絵を見ても、まず色の見え方で先天的に異なる場合がある。赤青黄の三色の色覚にしても、たとえ色覚異常でないにせよ、若干の強度のばらつきは考えられる。それに加えて視力や乱視の問題もある。そして、見えた色彩に関しても、幼少期からの環境や習慣によって、ある種の色には敏感である種の色には鈍感になるといったことも生じる。こうして色彩感覚は文字通り十人十色ということになる。
 さらにそこに描かれた絵の内容にしても、その人の持つ記憶と結びつけられたとき、思い起こすものはみんな違う。その記憶を関連付けて絵を解釈する段になっても、思考回路は人それぞれみんな違うし、それに対して感じられる快不快も異なる。
 ということで、万人が等しく感動する絵なんてものは存在しない。どんな名画でも見る人によっては興味を引かないということは別におかしなことではない。
 音楽でも同じで、聴覚そのものも先天的にばらつきがあるだろうし、環境や文化によってある種の音に敏感になったり鈍感になったりもする。そこから連想される思考も人それぞれだし、それを快と感じるか不快と感じるかも人それぞれだ。つまり万人が等しく感動する音楽なんてものは存在しない。
 文学ということになればさらに明らかだ。同じ日本語と言っても日本全国均一ではないし、地域や階級や職種、それに一部の趣味の人が好んで使う言葉があったり、特定の仲間内だけに通じる言葉や家族の中だけで通じる言葉もあったりする。さらに一部の外国人の片言の日本語も、日本人の言語感覚に影響を与えたりする。翻訳調の言い回しや、いろいろな国の言葉の癖が移ったりもする。
 もちろん一つの単語から想起されるものは各自の過去の体験や知識に基づくもので、ネイティブであれば特にだが、辞書を見て言葉の意味を理解しているのではない。
 そういうわけで万人が等しく感動する文学も存在しない。
 芸術の価値というのはカントの言うようにそれについて議論することは可能だが、ただ現実的には各自の感性の多様性の壁に阻まれて、おそらく永久に結論が出ることはないだろう。ただ言えるのは、多くの人が記憶に残そうとしたものは残るというだけのことだ。
 芸術は人間のあくなき創作意欲がある限り日々ほぼ無数に生み出されては、人間の記憶の限界からその多くは作られたすぐそばから忘れ去られてゆく。その中で残るというのは、それだけ多くの人の記憶に取り付いて離れなかったからに他ならない。
 まあ、近代では政府主導でカリキュラムを作りほぼ強制的に覚えさせることで時の権力の都合のいい作品を残そうとするが、ただ一つの体制もそう長くは続かないから、体制が変わるたびにただ覚えさせられただけのものは消えてゆく。こうした忘却の荒波をかいくぐったものだけが古典と呼ばれる。
 芸術作品への人々の熱狂と陶酔は、少なからず脳内快楽物質の作用と結びついて独自の脳回路を形成するところからくるもので、必ずしも自由意志によるものではない。少なくとも脳の回路を人が自由意志に基づいて任意に設計するなんてことはできるはずがないからだ。だから時の権力により特定の芸術を奪うことは一時的には可能だが、結局は長続きしない。
 江戸時代でも享保、寛政、天保の改革を代表とするように、何度も巷で流行する芸術に禁制が敷かれてきた。明治維新のときも政府の西洋化政策から多くの伝統芸術が禁止され、弾圧された。もちろん軍国主義の時代も様々なものが禁止された。他所の国の話だが、社会主義革命によってそれまでの芸術が禁止されたり弾圧されたりする例はたくさんある。イスラム原理主義やキリスト教原理主義によるそれももちろんある。だが、芸術の禁止は人間の感性を変えることはできなかった。ただみんな我慢していただけだ。
 人間の多様な脳回路は自由意志によって選択されたものではないから、自由意志によって変えさせることはできない。
 脳回路の多様性は個性でありキャラクターである。LGBTもあくまでキャラであって病気ではない。それを病気とみなすとすれば、それは社会的な排除のシステムに他ならない。プロ棋士とネトゲ廃人を分けるものも、そうした排除のシステムに他ならない。
 明治の文学者たちが連歌や俳諧を文学とみなさず「愚なるもの」とすら言ったのも、排除の論理であり芸術の論理ではない。だから連歌も俳諧も消えることなく今日にその多くの作品が保存されている。それに再び新しい価値を与えられるかどうかはこれからの人間の仕事だ。
 脳回路が選択し、快だと感じる芸術はもとより多様であり、人間の飽くなき創作欲と記憶の限界から芸術作品は常に流行を繰り返す。ならば不易とは何か。芸術には普遍的な価値は存在しないのか。美の普遍は存在しないのか。おそらく作品としては存在しない。ただどこかで国や時代が変わっても同じ人間として共鳴できるものはある。その共通の感覚が不易に他ならない。

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