2018年1月29日月曜日

 月もだいぶ丸くなってきた。31日に満月となり、月食があるらしい。その四日後は立春。旧暦だとまだ師走だが。
 そういうわけで、今年は年内立春、「年の内に春はきにけり」になる。立春から正月まではふる年と今年とが共存し、過去と現在とが出会うその期間が今年は二週間近くある。
 かなり前に見たセサミストリートで、過去と現在が出会う場所、それは博物館というのがあったが、古今集もきっとそういう意図で編纂されたのだろう。
 さて、それでは「日の春を」の巻の続き。ここでも過去と現在とが出会う。

 四十七句目。

   糺の飴屋秋さむきなり
 電の木の間を花のこころせば   挙白

 『初懐紙評注』には、

 「秋といふ字を不捨に付侍る。巧者の(秋以下十五文字一本によりて補ふ)働言語にのべがたし。糺あたりの道すがら森の木の間勿論也。木の間に稲妻尤面白し、真に秋の夜の花ともいふべし。」

とある。
 「評注」の「秋以下十五文字一本によりて補ふ」というのは、「秋働言語にのべがたし」と十五文字抜けていたのを、別の本によって補ったということか。
 秋という字を捨てずというのは、大方こういう場面では「糺の飴屋」から展開するということだろうか。この句は確かに飴屋の方を捨てて、秋を生かして付けている。
 電(いなづま:稲妻)は以前『ももすもも』の「冬木だち」の巻を読んだとき、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』を引用した。ここでふたたび。

 「[和漢三才図会]秋の夜晴て電あるは常也。俗伝ていふ、此時稲実る故に、稲妻、稲交(いなつるみ)の名あり。」

 このとき「実際には見たことがない」と書いたが、子供の頃の記憶で、夜の空の地平線近くが薄っすらと光っては消え光っては消えて、何だろうと思ったことはある。それが稲妻なのか人工的なライトが雲に反射しているだけなのかはよくわからない。
 おそらく今の夜空が明るすぎることが原因なのだろう。町の灯りのない、天の川が見えるくらいの山奥とかだったら稲妻も常なのかもしれない。
 加茂の糺の森は、昔は夜ともなると真っ暗闇で、その木の間から稲妻の光が漏れると、そこだけはっと明るくなり、花が咲いたように見えたのだろう。

 四十八句目。

   電の木の間を花のこころせば
 つれなきひじり野に笈をとく 枳風

 『初懐紙評注』には、

 「此句の付やう一句又秀逸也。物すごき闇の夜、稲妻ぴかぴかとする時節、聖、野に伏侘る体、ちか頃新し。俳諧の眼是等にとどまり侍らん。」

とある。
 「ひじり(聖)」は諸国を遊行する一所不住の僧で、「笈」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、「修験者(しゅげんじゃ)などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱。」だという。聖は笈を背負い、しばしば野宿をした。
 あたりは真っ暗闇で稲妻がピカピカ光っていれば、普通の人なら恐怖を感じる所だが、そこは意に介さない(つれない)僧のこと、木の間の稲妻もこれぞ花とばかりに背負ってた笈を下ろし、そこで野宿する。

 稲妻に悟らぬ人の貴さよ   芭蕉

の句はこれより後の元禄三年の句。あるいはこの枳風の句が頭にあったのかもしれない。
 芭蕉の紀行文に『笈の小文』とあるが、これは芭蕉自身が付けたタイトルではなく、芭蕉の死後に近江の弟子の乙州(おとくに)がつけたものとされている。
 芭蕉も旅するときは僧形だったし、遊行する「ひじり」になぞらえてこういうタイトルをつけたのだろう。「俳聖」というのもそういう点では二重の意味があったのだろう。同時代の本因坊道策を「棋聖」と呼ぶように、芭蕉の俳句があまりに神だから(一昨年の流行語で言うなら「神ってる」から)「聖」の名を冠しているのと、遊行する聖(ひじり)のようだからというのと、両方の意味で「俳聖」だったのだろう。
 日本は多神教の国で、もとより全知全能の神なんて概念はない。「神」というのは易経の「陰陽不測、是を神という」の神で、要するに説明のつかないことは「神」なのである。

 四十九句目。

   つれなきひじり野に笈をとく
 人あまた年とる物をかつぎ行   揚水

 『初懐紙評注』には、

 「此句又秀逸也。聖の宿かりかねたる夜を大晦日の夜におもひつけたる也。先珍重。聖は野に侘伏たるに、世にある人は年取物かつぎはこぶ体、近頃骨折也。前句の心を替る所、猶々玩味すべし。」

とある。
 前句の聖の野宿を大晦日のこととする。芭蕉にも『野ざらし紀行』の旅の句に、

 年暮れぬ笠きて草鞋はきながら  芭蕉

というのがある。実際は故郷の伊賀で年を越したようだが。故郷に帰っても心は旅の中だ、という意味か。
 昔は数え年だったので、正月が来ると一歳年を取る。今みたいに誕生日で年を取るのではなかった。大晦日は決算日でもあり、商人は忙しく駆け回る。それを「年を取るものを」と「物をかつぐ」とを掛けて「年とる物をかつぎ行」と表現する。聖はかついだ物を降ろし、世俗の人は年を背負い込む。
 まあ、だからといって聖が年取らないわけではないが、ただ年を取るのも忘れていつでも気持ちを若く保つというのは大事なことだ。「忘年会」というのも本来は年を取るのを忘れるためにみんなで楽しもうというものだった。それを一部の人だが、「過去を忘却するなんてけしくりからん」とか言って「望年会」なんて言ったりしている。日本語をちゃんと勉強しよう。そうしないと老けちゃうよ。それが望みならいいけど。

 五十句目。

   人あまた年とる物をかつぎ行
 さかもりいさむ金山がほら  朱絃

 『初懐紙評注』には、

 「金山は我朝の大盗也。前句よく請たり。註に不及、附やう明也。」

とある。
 「金山」は御伽草子の「あきみち」に出てくる金山八郎左衛門のこと。とはいえ、このあだ討ち物語とは関係なく、単に大泥棒として掻っ攫った物をアジトに運び込んでは酒盛りする情景を付ける。
 このあと、この評注について短い説明がある。

 「当時の俳道意味心得がたし、願は句解したまはらんやと侍りければ、即興に加筆し給じ。終日の席、はせを翁の持病心よからず五十韻にして筆をたち給ふ。」

 これでいくと、この評注は芭蕉の晩年の病の中で書かれたもののようだ。確かに十年近くたってしまうと、貞享のころの俳諧は既にわかりにくくなっていたのだろう。支考が古池の句をよく理解できてなかったように。
 ただ、この詞書が本当かどうかはわからない。晩年の軽みの頃の用語が使われてない点では、実際は貞享三年春からそう遠くない時期に書かれたのではないかと思う。ただ、草稿としてしまってあったものを晩年に弟子の誰かに託したのかもしれない。
 いずれにせよ残念ながらあとの五十句は注釈がない。自力で読まなくてはならない。

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