2018年1月11日木曜日

 脳の回路は各自の人生における様々な偶然の積み重ねによって形成されるもので、何びとたりとも自分の脳の回路を自由意志によって設計することはできない。
 いかなる思想であってもそれを人に強要することができないのは、脳の回路はいかなる強制によっても変えることができないからだ。ただ恐怖で縛り付ける、いわゆる「洗脳」があるだけだ。
 脳の回路はその人の個性であり、人は全て多様性の一つとしての自分を生きるほかない。それがために降りかかる運命も、結局全て受け入れなくてはならない。
 許六編の『風俗文選』の不知作者による「雑ノ説」はそうした運命をよく捉えている。

 「人物禽獣は。其人物禽獣の粉骨なる所に倒れ。山川草木は。其山川草木のすぐれたる所にたふる。物皆おのがたのしみの纔(わずか)なる所に。たふれ果るも哀なる事なるべし。瞿曇は無為に倒れ。仲尼は仁義にたふる。荘老は寓言にたふれ。神仙は霊異に倒る。伯夷叔齊は賢にたふれ。楠正成は忠に倒る。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

 瞿曇(ぐどん)はGautama、つまりゴーダマ・シッダールタ(瞿曇悉達)のこと。仲尼は孔子のこと。伯夷・叔斉は殷代末期の孤竹国の王子で最後は餓死した。

 「火はあつきにたふれ。水はひややかなるにたふる。砂糖はあまきにたふれ。野老はにがきにたふる。長はながきにたふれ。短はみぢかきに倒る。されば瘡を愁ふるほとは痒をかく所にたのしみ。貧を苦しむものは。盗賊の難なき事をたのしふ。是皆和漢人情の趣く事は。さらさらかはる事あるべからず。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

 野老(ところ)はオニドコロのことで、自然薯に似ているが、どこにでも生えている草で、根は苦くて普通は食べられないが、かつてはあく抜きをして食用にしていたという。イモの部分に髭のような根が生えていることから、老人のようなので、野老と書く。

     菩提山
 此山のかなしさ告げよ野老掘    芭蕉

の句が『笈の小文』のなかにある。
 瘡の喩えは「幸福とは苦痛がなくなることである」「ならば水虫を掻いている時は幸福なのか」と言う有名な詭弁を思い出させる。正確には水虫を掻いている時は苦痛を掻くという別の刺激で紛らわしているだけで苦痛がなくなるわけではない。水虫が完治したなら幸福なのではないかと思う。
 貧乏人が盗られるものがないことを楽しむというのも、まあ負け惜しみというか、やはり盗られるほどの財産を持ってみたいものだ。
 まあ、こういう話は洋の東西問わず必ずあるものだ。

 「昔より風雅に倒るる人おほき中に。西行は歌に倒れ。宗祇は連歌にたふる。先師ばせを翁は、はいかいにたふれて。生涯を終る。其門葉あまたの中に。たふるる所同じからず。武の杉風は耳のとほきにたふれて。微細の論を聞かざれば。二十余年半は流行し。半は流行せず。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

 死ぬ間際まで俳諧のことが頭から離れなかった芭蕉翁のことは、去年たどってきた。『笈の小文』で

 「ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋る。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

と言う芭蕉は、まさに俳諧依存症だ。
 杉風は余り人の意見に耳を貸さなかったのか、芭蕉存命中は『炭俵』の軽みにも着いて行き、流行の先端にいたが、芭蕉の死後はかたくなに芭蕉存命時代の風体を変えなかったのだろう。それでも享保十七年(一七三二年)八十六歳まで生きた。

 「洛の去来は。風雅の正直にたふれて。春風桃李花の開くる日をしらず。其角は作にたふれ。支考は理にたふる。涼菟はふるみのしたるきに倒れ。露川は俳諧の数にたふる。史邦木導は風雅のつよみに倒れ。千那李由は風月の情の過たるに倒る。嵐蘭は鎌倉の月にたふれ。丈草は松本の閉関にたふる。杜国は横にたふれ。惟然は高みにたふる。尚白は忘梅の趣向に倒れ。許六は文章の文に倒る。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76~77)

 去来の句は生真面目で型どおりに納めようとする傾向があり、全体に花に乏しかったし、其角はひねりすぎてしばしば企画倒れ。支考は芭蕉存命中は天才的な機知を示したが、やがて俳論書を書くことにのめりこんでいった。
 涼菟は伊勢の神職で都会的な新しさを求めることもなく、田舎の水にどっぷりとつかっていった。露川は諸国を行脚し『西国曲』『北国曲』を編纂した。どちらもボリュームのある書で確かに数は多い。
 嵐蘭は江戸の人で元禄六年、鎌倉に月を見に行ってその帰りに病に倒れた。初七日に芭蕉は、

 見しやその七日は墓の三日の月   芭蕉

の句を捧げている。
 丈草は近江松本の義仲寺無名庵に棲み芭蕉もしばしば滞在するが、芭蕉の葬儀がここで行われ、埋葬されたため、丈草は残りの生涯をここで芭蕉の墓を守ることに費やすこととなった。
 杜国は『冬の日』に参加し、『笈の小文』の旅にも同行したが、元禄三年に若くして死んだ。
 尚白は『忘梅』の編纂の際のトラブルで芭蕉に破門された。許六はこの『風俗文選』を編纂している。あるいはこの文章は許六のものか。

 「されば芭蕉流に倒るるものもあれば。ばせを流をたふす人もあるなり。鶯は時鳥に倒れ。桜は紅葉にたふる。人は人にたふるるもあれば。我は我に倒るるものなり。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.77)

 さて、ここでこの「雑ノ説」も絞めになるが、弟子たちの中には芭蕉に倒れるものもあれば芭蕉を倒すものもありと、芭蕉亡き後のごたごたを嘆き、鶯は時鳥に、桜は紅葉にと時の流れを感じ、人は人に倒れ、我も我に倒れると結ぶ。
 人は皆それぞれ多種多様な生き方をしてはそれぞれの持って生まれた性質によって倒れてゆく。我もまた同じ。結局多様性の一つとしての自分を生きる以外に道はなく、自分の道に倒れるならそれもまたやむを得ずというところか。

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