「日の春を」の巻の続き。
三十五句目。
近江の田植美濃に恥らん
とく起て聞勝にせん時鳥 芳重
『初懐紙評注』には、
「時節を云合せたる句也。美濃近江と二所いふにて、郭公をあらそふ心持有て、とく起て聞勝にせんとは申侍る也。」
とある。
田植えといえば初夏でホトトギスの季節になる。早起きしていち早く今年最初のホトトギスの声を聞き、美濃のホトトギスに勝ちたい、と。
三十六句目。
とく起て聞勝にせん時鳥
船に茶の湯の浦あはれ也 其角
『初懐紙評注』には、
「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。船中にて茶の湯などしたる風流奇特也。思ひがけぬ所にて茶の湯出す。茶道の好士也。思ひよらぬ物を前句に思ひ寄たる、又俳諧の逸士也。」
とある。
船中で茶の湯というのは揺れてやりにくそうだが、あえてそれを楽しむというのはなかなかお目にかかれないような飛び切りの数奇物ということか。船中で酒ならありきたり。
時鳥を聞くために早起きする奇特さと、船中での茶の湯の奇特さ、奇特つながりといい、そこに浮かび上がる数奇物の像といい、後の匂い付けに繋がるものを感じさせる。
「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。」という言葉は、『去来抄』にいう、
面梶よ明石のとまり時鳥 野水
の句が芭蕉の「野を横に」に似ているということで、『猿蓑』に入集させるべきかどうか去来が芭蕉に相談した時、芭蕉が「明石の時鳥といへるもよし」と言ったことを思い起こさせる。
二裏、三十七句目。
船に茶の湯の浦あはれ也
つくしまで人の娘をめしつれて 李下
『初懐紙評注』には、
「此句趣向句作付所各具足せり。舟中に風流人の娘など盗て、茶の湯などさせたる作意、恋に新し。感味すべし。松浦が御息女をうばひ、或は飛鳥井の君などを盗取がる心ばへも、おのづからつくし人の粧ひに便りて、余情かぎりなし。」
とある。
「娘など盗て」というのは当時のリアルな誘拐事件ではなく、あくまで王朝時代の物語の趣向と思われる。
「飛鳥井の君」は『狭衣物語』、「松浦が御息女」はよくわからないが『源氏物語』の玉鬘か。
三十八句目。
つくしまで人の娘をめしつれて
弥勒の堂におもひうちふし 枳風
『初懐紙評注』には、
「此句、尤やり句にて侍れども、辺土の哀をよく云捨たり。句々段々其理つまりたる時を見て、一句宜しく付捨らる逸句不労。」
中世の連歌では恋は三句から五句続けるのが普通だったが、蕉門では一句で捨てていいことになっていた。ここでも釈教に展開して恋を捨てる。
誘拐された娘はその身を嘆き、出家して仏道に入る。「おもひうちふし」に「辺土の哀」が感じられる。
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