今年も正月休みは今日で終わり。
一日は家でゆっくり休み、二日は午後になってから武州柿生琴平神社は混んでるだろうなと思って、歩いてゆける近くの伊勢社に初詣に行った。無人の神社で人はポツリポツリだった。
三日は「街道を行く、東海道編」の続きで島田から掛川まで歩いた。
金谷から旧東海道石畳の方へ行くと、鶏頭塚というのがあって、
曙も夕ぐれもなし鶏頭華 巴静
の句が記されていた。巴静は美濃出身で支考の弟子で、このあたりに蕉風を広めた人のようだ。鶏頭は朝も昼も夜も赤いので曙も夕暮れもないということか。
小夜(さや)の中山はたくさんの歌碑があった。
雲のかかるさやの中山越えぬとは
都に告げよ有明の月
阿仏尼
旅ごろも夕霜さむきささの葉の
さやの中山あらし吹くなり
藤原家良
年たけてまた越ゆべしとおもひきや
命なりけりさやの中山
西行法師
甲斐が嶺ははや雪しろし神無月
しぐれてこゆる小夜の中山
蓮生法師
東路のさやの中山なかなかに
なにしか人を思ひそめけむ
紀友則
ふるさとに聞きしあらしの声もにず
忘れぬ人をさやの中山
藤原家隆
東路のさやの中山さやかにも
見えぬ雲井に世をや尽くさん
壬生忠岑
甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく
横ほり臥せるさやの中山
詠み人知らず
阿仏尼の歌は、上方からきて事任(ことのまま)八幡宮の紅葉を見てから莢の中山に登り、「をちこちの峯つづき、こと山に似ず」とその眺望を『十六夜日記』に記している。歌は莢の中山を越えたあと菊川宿に泊った時のもので、他にも、
こえくらすふもとの里のゆふやみに
まつかぜおくるさやの中山
渡らむとおもひやかけしあづま路に
ありとばかりはきく川の水
の二首を記している。
蓮生法師と詠み人知らずの歌は「甲斐が嶺」を詠んでいる。ぐぐると甲斐が嶺は北岳(白根山)のこととあるが、蓮生法師の歌は広く南アルプス連峰の高山を指すものと理解すべきであろう。実際小夜の中山はいわゆる峠道ではなく稜線上を歩く道で眺めが良い。北の方も大井川渓谷が南北に長く通っているため、その合い間から聖岳のあたりの真っ白な山々が見える。これを「甲斐が嶺」と呼んだのだろう。
読み人知らずの歌は、「さやにも見しが」を「見じ」と同様にはっきりとは見えないがという意味に解されているが、「はっきり見えた」という意味に取ってもいいのかもしれない。その場合は、真っ白い峰々がこうして見えているのにたくさんの山が手前に横たわって心(けけれ)無い、という意味になる。
小夜の中山というと、芭蕉の句も二句ある。
命なりわづかな笠の下涼み 芭蕉
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 同
「命なり」の句碑は「涼み松」の所にある。この句は夏の炎天下の道で笠の下だけがわずかに涼しいという意味の句だと思っていたが、後の人が勝手にこの松の下で涼んだということにして、名所にしてしまったのだろう。
「馬に寝て」の句は早朝というか未明の句だが、だとすると菊川の間(あい)の宿に泊ったと思われる。菊川は阿物尼も泊った古くからの宿場だが、東海道五十三次には入らず間宿として扱われていた。ウィキペディアによると、
「間宿として異例であるが、東海道の金谷宿 - 日坂宿間にある菊川宿の様に、徳川幕府による宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間宿となった場合がある。この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川の川留めなど諸事情により旅人の宿泊施設が足りなくなった時等は、宿泊が公認された。 」
とある。大井川が川留めになっていて夕方になってやっと渡れたとすれば、菊川宿に泊ったとしても何の不思議はない。小夜の中山は山の上の方まで茶畑になっていたが、芭蕉の時代からそうだったかどうかはよくわからない。「茶のけぶり」というのは、焙炉で乾燥させるときの煙であろう。それは下から昇ってきた煙かもしれない。
小夜の中山は東には富士山を望み、北には南アルプスが垣間見え、西には浜松豊橋の平野や海までが見渡せる。道幅の広い古代東海道がこの小夜の中山の稜線に作られた時から、眺望は良かったのだろう。それが、単に東西の境界線というだけでない東海道随一の名所として古代から近世に至るまで和歌や俳諧に詠まれてきた理由なのかもしれない、とそう思った。
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