2018年1月8日月曜日

 昨日は目黒不動へ犬狛犬を見に行った。普通の狛犬は獅子の形をしているが、犬の形をしている狛犬は珍しい。ただ、狼狛犬との境界は曖昧で、狼狛犬だと言われれば狼狛犬だった。
 WHOはゲーム依存症を国際疾病分類に加えるというが、薬物の依存症と違い、本来の脳内快楽物質による依存症は少なからず誰しもあるものだ。仕事中毒なんていわれるのもそうだし、プロ棋士はみんな将棋依存症だし、登山家は登山依存症だし、サッカー選手はサッカー依存症だし、芭蕉は間違いなく俳諧依存症だ。そういう自分も学者にはなれなかったが一種の学問依存症と言っていいだろう。
 人生のある時に何かのきっかけである行為をしたときに脳内快楽物質が分泌され快楽報酬を受け取ると、脳内にそれを反復するような回路を形成する。分泌されるのは人工的な薬物ではなくあくまで天然の脳内快楽物質だ。
 アルコールやニコチンや他の薬物による依存症は、ある行為で脳内快楽物質を出すように回路が形成されるのではなく、人工的な快楽物質を脳内に注入するものだから、まったく質的に異なる。そして、その人工的な快楽物質を入手し、摂取するように脳内回路が形成される。
 そうではなく、天然の脳内快楽物質である限り、その分泌は器質的な障害ではない。ただ、その快楽物質回路は、本来は生存競争に勝ち抜くために機能するべきものだが、実際にはそれがために敗北をもたらしてしまうこともある。
 人間の場合、そうした勝者と敗者との境目が物理的なものではなく社会的であるため、結局快楽報酬をもたらす行動が社会的に承認されているものかどうかで明暗を分けることになる。競馬やパチンコに快楽を感じればギャンブル依存だが、投資に快楽を感じれば投資家になる。
 同じように、ネトゲに快楽を感じればゲーム依存症と呼ばれてしまうが、同じゲームでも囲碁や将棋なら棋士になれる。それは囲碁将棋にはスポンサーが着いて報酬が得られるという、それだけの違いにすぎない。
 社会的な報酬がなく、むしろそれをすることで反社会的の烙印を押されてしまう行為に関しては病気とみなされ、報酬のあるものはむしろ奨励される。純粋に生理学的に見ればその両者に境界はない。病気は社会によって定義される。
 ネトゲだってスポンサーが着いて報酬がもらえ、ゲームでの活躍を多くの人が賞賛し、国民栄誉賞がもらえるような状況が生じるなら、もはや誰もそれを病気とは言わないだろう。
 医学のまなざしが社会的なものであることは、ミシェル・フーコーが指摘してきたことだが、もちろん器質的な障害による精神病もあるから、そこは区別しなくてはならない。
 LGBTという言葉が一種の流行語のようになっているが、これは別に病気ではないし医学の問題ではない。それを受け入れるかどうかは社会の問題であり、あくまで文化の問題だ。そのなかで一部の者だけが性同一性障害と呼ばれるのは、治療することによって社会が受け入れることが可能だということで、逆にいえばLGBTから排除されているといってもいい。
 鬱はセロトニンの欠乏などの器質障害によるものだが、それでもかつては「発心」とみなされ、社会はそれをポジティブに受け入れてきた。何をするのも空しく感じられ、生きる気力の失せた状態になると、「この世の無常を悟った」と言われ、部屋に引きこもるようになると「世俗の交わりを断った」と言われ、拒食症になると「ついに穀を絶った、ありがたやありがたや」になる。そして補陀落渡海や即身仏などの合法的な自殺用を用意してくれる。
 病気は単に身体の変化の問題だけでなく、それを受け入れる社会の問題でもある。
 芭蕉は一所不住を誓い生涯を旅してすごしたが、百年後に歌枕の旅に出たある女性は「ものぐるい」とみなされたという。
 LGBTに関して言えば、キリスト教などの聖書の文化が同性愛を長いこと犯罪とみなしてきた歴史に負うところが大きい。そうした歴史を持たない日本では、芭蕉があたかもホモであるかのような発言をしてもスキャンダルになる事はなかった。まあ、実際にはホモではなかったと思うが。
 ある行動に対して快楽物質が分泌される回路を持つことは、その人間の最も本質的な個性を形成するもので、安易に医学の名の下に排除したり治療を強要するようなことがあってはならない。それがなければこの世の中にはただ均質な労働者がいるだけで、スターもヒーローも天才もいない退屈な世界にしかならない。均質な労働者なんてのはそのうちロボットに取って代わられるだけだから、これからはむしろあらゆる依存症を社会に役立てることの方が大切だ。かつてネトゲ廃人だった人でも、ネット株に転向して成功した人がいるという。

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