2021年1月5日火曜日

  正月の間はいろいろ本を読んだ。
 山本康正さんの『2025年を制覇する破壊的起業』、宮田裕章さんの『共鳴する未来』、村上芽・渡辺珠子さんの『SDGs入門』、成毛眞さんの『アフターコロナの生存戦略』など読んで、未来は結構明るいし捨てたもんではないということがわかり、励まされた。
 コロナの方は新規感染者は4745人。予想は外れてほしかったんだが、やはり年明けは大変なことになっている。緊急事態宣言も骨抜きにならなければいいが。
 それでは『俳諧問答』の続き

 「一、嵐雪 器随分わろし。本性懦弱ニして、花あるに似たれ共、実猶なし。相応にとりはやすやうなれ共、全体とりしめたる血脈なし。
 たとへばよく料理する人に献だてをかかせて、其献だてを前にすへて、客をもてなすに似たり。
 唐の蚊や終にかれたるもしほ草
 相撲とり並ぶや秋のから錦
 柔弱ニしてよハく、よハきに寄てうつくしきやう也。上に丹青をぬりていろどりたれバ、世俗の眼には真ンの錦のごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.202~203)

 「器随分わろし」はこれまででの最低の言い回しだ。花も偽物で実はそれ以下。

 布団着て寝たる姿や東山     嵐雪

の句は後世までよく知られた句で、元禄九年刊芳山撰『俳諧枕屏風』に掲載された句だから、この頃は既に詠まれていたが、東山を「布団着て寝たる姿」と取り囃すのはそれなりに面白いが、確かに底を抜くような血脈はない。 ただ、蕉門の俳諧そのものが惟然の超軽みに以降、全体に新味を失っていったため、それ以降の人間にとっては古い新しいの時間軸ではなく蕉門全体が古典として扱われるようになってしまったため、この句は結局近代に入っても人口に膾炙する句として生き残った。かえって許六さんの句の方が忘れ去られてしまっている。

   寒梅
 梅一輪いちりんほどの暖かさ   嵐雪

 この句も近代に入っても人口に膾炙する句として生き残った一つだ。宝永五年刊百里撰『遠のく』所収なので、死後の発表になる。当時として新しさはなかったとは思うが、春を待つ情の不易によって不朽の名句となった。
 献立の例えは、物腰が柔らかいから料理人ではなく給仕のようだということか。まあ、そのおもてなしの心が、人を楽しませようという心がうまく句に乗っかれば、給仕も一流ということになる。
 「唐の蚊や」の句は風国編『初蝉』の句で、

   題しらず
 唐の蚊や終にかれたるもしほ草  嵐雪
    此句ハ唐紙に蚊のすきこみて
    ありしを見ての吟なる
    よしきこえける

とある。
 唐紙をすき込むときに蚊が誤って入ってしまったまではわかるが、そのあとの枯れたる藻塩草がよくわからない。藻塩草はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」の解説に、

 「1 アマモの別名。
  2 藻塩1をとるために使う海藻。掻(か)き集めて潮水を注ぐことから、和歌では多く「書く」「書き集(つ)む」にかけて用いる。
  「あまたかきつむ―」〈栄花・岩蔭〉
  3 《書き集めるものの意から》随筆や筆記などのこと。
  「―とのみ筆を染め参らせ候」〈仮・恨の介・下〉」

とあり、この場合は書き集めたものが枯れたみたいだということか。
 唐紙に蚊が入ることはたまにあることなのだろうか。

 相撲とり並ぶや秋のから錦    嵐雪

 これは『炭俵』の句。この頃から相撲のまわしはだんだん派手になっていったのだろう。
 柔弱は逆に言えば繊細ということだし、それでいて華麗なものを好むところが、許六からすれば牢人風情が錦など、だったのかもしれない。

 「一、桃隣 花実いまだしかとセず。しかれ共、桃隣人間に生れたれバ、花実あるとハ見えたり。
 白桃や雫も落ず水の色
といへる句侍りけれバ、強て修行の功をつまば、あらハるべし。
 此人常に貧賤にして労セらる。朝夕自己のとりはやしニ寄て、かまどをにぎハせり。
 風雅もかくのごとしとおもへるに寄て、算用十露盤の上にて損益を考へ、長崎の行脚よりハ、松島の方に徳ありとおもへるに似たり。
 此人にハいろいろおかしき咄多し。ミちのくの旅せんといひしハ春の比也。其春晋子が句に、
 饅頭で人を尋ねよ山ざくら
と云句せしに、此坊ミちのくの餞別と意得て、松島の方へ趣たるもおかし。戻りて後の今日ハ、餞別にてなきとしりたるや、かれにききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.203~205)

 許六さんは貧乏人に対してかなり偏見があるのではないかと思う。路通にしても惟然にしてもそういうところがある。貧乏だから金に汚いとか、そんなことはない。そんな偏見を真に受けている松尾真知子さんもちょっとだが。
 元禄五年の冬、十二月上旬の「洗足に」で芭蕉と許六が二回目の同座をした後、十二月二十日に桃隣は其角とともに芭蕉と同座し、「打よりて」の歌仙を興行している。許六が江戸にいたころ桃隣もいたわけだが直接対面することがあったかどうかはわからない。

 白桃や雫も落ず水の色      桃隣

の句は『続猿蓑』の春の部にあり、桃の花を詠んだ句だ。『俳諧問答』の奥書に「元禄十一戊寅春三月」とあり、『続猿蓑』の刊行が元禄十一年の五月だから、この句は何らかの別のルートで知ったのだろう。
 「算用十露盤の上にて損益を考へ、長崎の行脚よりハ、松島の方に徳あり」にしても、確かに江戸から長崎は遠すぎる。芭蕉だって行かなかった所だ。それに『奥の細道』の足跡を巡る旅は支考もやっている。もっとも支考は長崎にも行っているが。
 其角の「饅頭で」の句は元禄九年刊の李由・許六編『韻塞』にも収録されているが、元禄十年の桃隣編『陸奥衛』の巻に「むつちどり」には、

 「遙に旅立と聞て、武陵の宗匠残りなく餞別の句を贈り侍られければ、
  道祖神も感通ありけむ。道路難なく家に帰り、再会の席に及び、此道
  の本意を悦の餘り、をのをの堅固なる像を一列に書て、一集を彩ものなり。
    子の彌生 日」

と前書きし、調和、立志以下二十人、一人一ページ座像入りで一句ずつ掲載している。ただ、ここには故人である芭蕉も含まれているため、全部がこの時の餞別の句ではない。
 確かにそこには、

   餞別
 饅頭て
 人を尋よ
  やまさ
   くら  其角

と記されている。
 そして巻五の「舞都遲登理」の桃隣の紀行文の序文の最後に、

   首途
 何國まで華に呼出す昼狐     桃隣

の句がある。これはおそらく、「饅頭へ」の句への返しのようにも見える。饅頭を持って行って人を尋ねてこい。それにたいして「どこまで行かせる気だよ」と返すやり取りは面白い。
 そうだとしたら「昼狐」は其角のことになる。蕉門の大先輩を「昼狐」呼ばわりしたとなれば、普通なら失礼な話だが、考えられるのは最初から話題作りのために桃隣と其角が示し合わせてそういう噂を流したということだ。
 饅頭の句の最初に作られた時の意図は別に、集を盛り上げるために転用した可能性はある。
 というわけで、真面目な許六さんは見事に二人の戦略に乗ってしまったのではないか。

 「一、野坡・利牛・孤屋 其中野坡すぐれたり。旧染の汚れを炭俵にあらため、流行のかるき一筋を得たり。
 しかれ共、元来三人共越後屋の手代なれバ、胸中せまきものにて、たとへバ浅草川に舟逍遥する人のごとし。陸地より見る人、起臥自由に楽めるとおもへ共、舟中より外ニ動事かたし。
 されバ、上野・浅草の遊興をしらざるに似たり。師の恩に寄て、炭俵の撰者の号を蒙り、名をあらハセり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.205~206)

 野坡はウィキペディアに、

 「寛文2年(1662年)、越前福井で斎藤庄三郎の子どもとして出生。父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店の手代を勤める。其角の教えを受けて俳諧をはじめたとされるが、野坡の作品は貞享4年(1687年)刊『続虚栗』に初出である。その後、しばらく空白期間をおいて、元禄6年(1693年)に松尾芭蕉の指導を受け、元禄7年(1694年)6月、孤屋・利牛らと『すみだはら』を編集刊行。松尾芭蕉の没後、元禄11年(1698年)から元禄14年(1701年)まで商用で長崎に滞在、やがて越後屋を退き、元禄15年から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始。」

とあるので、元禄十一年の時点ではまだ越後屋にいたことに間違いない。
 利牛もコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「?-? 江戸時代前期の俳人。
  江戸の越後屋両替店の手代(番頭とも)。元禄(げんろく)7年(1694)志太野坡(しだ-やば),小泉孤屋(こおく)とともに松尾芭蕉(ばしょう)の監修で江戸蕉門の撰集「炭俵」を編集,刊行した。通称は利兵衛,十右衛門。」

とある。ただ、ソースの出所が『俳諧問答』の可能性もある。
 孤屋も、同じくコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「?-? 江戸時代前期の俳人。
  江戸の人。越後屋の手代。松尾芭蕉(ばしょう)にまなび,元禄(げんろく)7年(1694)芭蕉の監修で志太野坡(しだ-やば),池田利牛(りぎゅう)らと「炭俵」を編集した。通称は小兵衛。」

とある。
 越後屋の手代ということで、今で言えばサラリーマンだから、不自由な中で俳諧をやっているというので「胸中せまきもの」なのだろう。ただ、だからといって近江藩士だから視野が広いというわけでもなかろう。藩士は藩士の仕事に拘束されている。芭蕉のように自由に生きられる人の方が希だ。
 ただ、奉公人の心情は奉公人が一番よく知っていて、日本全国奉公人がかなりの数いるなら、それだけの支持を集めることができる。上級藩士の方が少数派だ。
 芭蕉もこれからは奉公人の時代だと思ってこの三人を集め、『炭俵』を編纂させたのかもしれない。
 なお李由・許六撰『韻塞』にも野坡・許六・利牛の三吟が収められている。江戸にいた頃のものか。

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