2021年1月11日月曜日

  ニュー資本主義ではなくてもっと端的な言い方をするなら「持続可能資本主義」でいいのではないかと思う。ただこの名称だと、「資本主義を持続させるなんてとんでもない」とパヨチンどもが発狂しそうだが、逆に言えば持続可能資本主義は左翼の革命思想を終わらせる力があり、人々を左右の対立による犠牲から救うことにもなる。ネトウヨとパヨクの対立もなくなる。
 オールド資本主義は資源の枯渇、環境破壊、貧困による消費の低迷などによって破滅の道を歩む。戦後の修正資本主義(これは左翼の側からの呼び名だが)は国内の貧困を解消し、消費社会を生み出したが、それだけでは不十分だった。基本的には、
 1、地球レベルでの貧困をなくすことで、全世界が巨大な消費社会になり需要が飛躍的に伸びる。
 2、民族やマイノリティーへの差別をなくすことで多様な消費形態が生まれ、これも市場の拡大につながる。
 3、再生可能エネルギーや資源のリサイクルをすることで、資源の枯渇による経済危機を防ぐ。
 4、地球温暖化に配慮することで、天災による損失を減らす。
 5、地球環境全般に配慮することで、リスクを減らすとともに新たな需要を喚起することもできる。
ということだろう。
 中国型の一国資本主義は漢民族の消費拡大にしかならない。3、4、5、で多少の貢献は可能だが、限定的でしかなく、むしろ途上国の搾取や民族・マイノリティーへの弾圧を行うため、資本主義の発展にとってはマイナスになる。
 中村哲さんがアフガニスタンでしたようなことは、これからはゼネコンがやってもいいのではないかと思う。ボランティアではなく地元の労働者に正当な賃金を払って行えば、地元経済の発展にもなる。日本がもっと早くからこういうことを積極的にやっていれば、アフリカが中国によって借金漬けになることを防げたし、WHOもコロナ対策にきちんと機能できただろう。
 コロナの方は神奈川に続き東京もクラスター追跡をやらなくなった。市中感染が広がって追跡困難な上、それに人員を割く余裕もなくなった。今までの感染抑制の切り札を失うことになった。
 幸い鈴呂屋は今日も暇なので今年も俳諧を読んでいくことにしよう。

 『笈の小文』の旅の「星崎の」の巻の続きで、「笠寺や」の巻。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によると、

 「『知足齋日日記抄』貞享四年十一月の冬に、「十七日、笠寺奉納はいかい今日私宅ニて桃青翁と共連衆七人ニてスル」とある。但し、芭蕉は発句のみ。発句は貞享四年春(三年春説もある)の寂照(知足)宛書簡に出で、この年の春、予め送っていた。」

とある。この書簡は短く、

   「この御寺の縁記(起)、人のかたるを聞侍て
 かさ寺やもらぬ岩屋もはるのあめ
             武城江東散人芭蕉桃青

 笠寺の発句度々被仰下候故、此度進覧申候。よきやうに清書被成、奉納可レ被レ成候。委曲夏中可得御意候。 以上
   寂照叟」

とある。
 笠寺は天林山笠覆寺で笠寺観音と呼ばれている。名鉄線本笠寺駅の近くにある。ウィキペディアには、

 「寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年 - 736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。
 その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年 - 935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。」

とある。笠地蔵の原型のような話だ。
 なお、この寺にある芭蕉句碑はなぜか笠寺の句ではなく星崎の句になっているという。
 芭蕉が『笈の小文』の旅で訪れたということで、知足宅でこの発句を立句として歌仙興行が行われるが、芭蕉は同席しただけで発句のみの参加となっている。
 そのため、発句は十一月だけど春の句になっている。

   奉納
 笠寺やもらぬ窟も春の雨     芭蕉

 笠寺の辺りは平地なので岩屋(窟)がありそうなところではない。この句は「笠寺の春の雨(に)もらぬ窟もや」の倒置で、つまり観音様に被せた笠を岩屋に見立てたものだろう。娘のしたことは岩屋を掘ったに匹敵する、という意味になる。「も」は力もで並列のもではない。
 知足亭での興行なので脇は知足が付ける。

   笠寺やもらぬ窟も春の雨
 旅寝を起こすはなの鐘撞     知足

 「旅寝を起こす」というのは、わざわざ旅の途中に立ち寄ってもらったことへの労いであろう。春のなので「花」、お寺なので「鐘」と四手に付ける。
 第三。

   旅寝を起こすはなの鐘撞
 月の弓消ゆくかたに雉子啼て   如風

 朝の景に雉子の声も添えて下弦過ぎの「末の三日月」を付ける。
 四句目。

   月の弓消ゆくかたに雉子啼て
 秀句ならひに高瀬さしけり    重辰

 高瀬舟は江戸時代の河川での物流を担ってきた船。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「近世以後、川船の代表として各地の河川で貨客の輸送に従事した船。小は十石積級から大は二、三百石積に至るまであり、就航河川の状況に応じた船型、構造をもつが、吃水の浅い細長い船型という点は共通する。京・伏見間の高瀬川就航のものは箱造りの十五石積で小型を代表し、利根川水系の二百石積前後のものはきわめて長大で平田舟(ひらだぶね)に類似し、大型を代表する。」

とある。下流の川幅が広いところでは平田舟が用いられた。
 高名な俳諧師が来るとなれば、高瀬舟に乗って駆け付ける。その方が歩くよりも早いからだ。
 芭蕉の『奥の細道』の旅での日光から大渡(おおわたり)への近道も高瀬舟だったのかもしれない。
 五句目。

   秀句ならひに高瀬さしけり
 茶を出す時雨に急ぐ笹の蓑    安信

 蓑は通常藁で作るが笹の蓑もあったのか。高瀬舟の船頭が着ていたのだろう。
 前句を京都の高瀬川の舟として宇治茶の出荷の場面を付ける。高瀬川はウィキペディアに、

 「江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。」

とある。
 宇治の抹茶は甜茶にしたあと熟成させるため、秋に封切りをした。時雨の頃が抹茶の出荷時期になる。京の町に秀句を習いに行く人も、この船に同乗する。
 六句目。

   茶を出す時雨に急ぐ笹の蓑
 売残したる庭の錦木       自笑

 錦木(ニシキギ)はウィキペディアに、

 「日本の北海道・本州・四国・九州のほか、国外では中国、アジア北東部に分布し、山野に自生する。秋の紅葉を楽しむため、庭木としてもよく植えられる。紅葉が見事で、ニッサ・スズランノキと共に世界三大紅葉樹に数えられる。」

とある。
 前句の笹の蓑を冬構えの木に被せる覆いと取り成したか。
 売れ残って紅葉の葉も散ってしまったニシキギに、時雨にやられないように笹の覆いをする。

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