今日も晴れて寒く、夕暮れには半月にやや近づいた月が見え、そしてきぼうが見えた。午後六時過ぎ、ベランダの向きが悪くてほんの少しだったが、きぼう国際宇宙ステーション(ISS)が見えた。
アニメの『はたらく細胞BLACK』はなかなか身につまされる話だが、でも結局ブラックだろうがホワイトだろうが最後はみんな死ぬんだ。何のためにこんな苦しんでるんだと言っても、結局すべてはゲノム様の乗物を動かすためで、みんな使い捨てなんだ。
ただ、脳のニューロンの集中が独特な量子的な場を生み出し、そこに意識が生まれ、因果律を越えた自由が生まれる。ここにいる(現存在する)ということは、この宇宙の果てしない虚無の海の中に浮かぶほんの小さな島だ。そこで機械的因果律に支配された世界に唯一反抗する。そして最後は力尽きて虚無に飲み込まれていく。それだけだ。人間だって猫だった、ある程度の大きさの脳がある物はみんな同じだ。
我々はどこまでもゲノム様の乗り物だが、それを利用して意識が生み出したミームを残すことができる。俳諧もそんな先人の残していった貴重なミームだ。
それでは「箱根越す」の巻の続き。
二表
十九句目。
そのまま梅を植るまく串
下ごころ弥生千句の俳諧に 如行
千句興行は連歌の古い時代に盛んに行われた。俳諧の場合は談林の時代に俳書を刊行する際に十百韻(とっぴゃくいん)の体裁をとることが多かったが、千句興行の形はとらなかった。西鶴の矢数俳諧のような何千句何万句の極端な興行はあったが。
ここでは梅の木を植えるというところから、松意撰『談林十百韵』の第一百韻の発句、
されは爰に談林の木あり梅の花 梅翁(宗因)
の句を連想したのだろう。
そこからそんな都合よく梅の木があるわけないから、「下ごころ(計略)」であらかじめ植えておいたのではないかと想像し、『談林十百韵』をほのめかしながらもタイトルを連歌っぽく「弥生千句の俳諧」に置き換えたのではないかと思う。
二十句目
下ごころ弥生千句の俳諧に
あさつき喰ふ人の臭さよ 荷兮
アサツキ(浅葱)は今日では爽やかな香りを好む人も多いが、昔は臭いと言われていたようだ。まあ、「香り米」も臭いと言われていたから、この時代の人の匂いの感覚はそうだったのだろう。ただ、今日のパクチーのように、好きな人は病みつきなるようなものだったのかもしれない。この句の場合もパクチーに置き換えてみればわかりやすいかもしれない。
二十一句目
あさつき喰ふ人の臭さよ
とろとろと一寝入して目の覚る 越人
今でもアサツキを検索すると、「酒の肴に」というのが出てくるように、当時も酒の肴に一部の人に好まれたのだろう。宴席で酔いが回って一寝入りして目が覚めると、隣の奴がアサツキを食ってたりする。
二十二句目
とろとろと一寝入して目の覚る
堂もる雨の鎧通りぬ 如行
雨漏りするお堂の中に隠れてそのまま居眠りしたのだろう。追手の鎧武者たちは通り過ぎて行った。
二十三句目
堂もる雨の鎧通りぬ
ころつくは皆団栗の落しなり 野水
鎧武者が通るのを見たのは夢で、屋根にコロコロと落ちる団栗の音だった。落ち武者ならぬ落ち団栗だった。
切られたる夢は誠か蚤の跡 其角
のような夢落ち。
落ちたのが柿の実だったら去来の落柿舎になるが、それは元禄二年の話。
二十四句目
ころつくは皆団栗の落しなり
その鬼見たし蓑虫の父 芭蕉
許六編『風俗文選』の素堂「蓑虫ノ説」に、
「みのむしみのむし。声のおぼつかなきをあはれぶ。ちちよちちよとなくは。孝に専なるものか。いかに伝へて鬼の子なるらん。清女が筆のさかなしや。よし鬼なりとも瞽叟を父として舜あり。汝はむしの舜ならんか。」
と記している。
蓑虫は鳴かないが「ちちよちちよ」と鳴くというのは、ウィキペディアによればカネタタキの声を蓑虫の声と誤ったのではないかと言う。まあ、ミミズが鳴くというのも、実はおケラの声だったというから。
「清女」は清少納言のことで『枕草子』に
「みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろしき心あらんとて、親のあやしききぬひき着せて、今秋風吹かむをりぞ来んとする」
とある。瞽叟(こそう)は伝説の舜帝の父で、コトバンクの「世界大百科事典内の瞽叟の言及」に「舜の父は瞽叟(こそう)で暗黒神。」とある。
団栗が落ちる中で一人ぶら下がっている蓑虫は父親が鬼だと言われている。どんな鬼なのか見てみたいというのだが、食われないように気をつけてね。
なお、芭蕉は翌三月伊賀を訪れた時に、土芳の蓑虫庵の庵開きにと、
みの虫の音を聞きにこよ草の庵 芭蕉
の句を贈っている。
また、そのあと葛城山で、
猶みたし花に明行神の顔 芭蕉
の句を詠んでいる。
二十五句目
その鬼見たし蓑虫の父
布衣やぶれ次第の秋の風 如行
蓑虫を服もボロボロの乞食の姿に重ね合わせる。親の顔を見てみたい。
二十六句目
布衣やぶれ次第の秋の風
松島の月松島の月 越人
これはまさに風羅坊(芭蕉)。『笈の小文』の冒頭に、
「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」
とあるが、この文章はまだ書かれてなかったはずだ。
しかもこの『笈の小文』の後、芭蕉は「松嶋の月先(まづ)心にかかりて」と言って『奥の細道』の旅に出る。まるで今後の芭蕉を予言するようだ。まあこの頃から雑談でいつか松島の月を見に行きたいと語ってたのかもしれない。
句の方も後に江戸時代後期の狂歌師・田原坊の、
松嶋やさてまつしまや松嶋や
の句を先取りしているかのようだ。
越人という人は物凄いアイデアマンだったけど、あと一歩というところでそれを生かしきれなかった人なのかもしれない。「ためつけて」の巻の二十一句目、
釣瓶なければ水にとぎれて
夕顔の軒にとり付久しさよ 越人
の句もあと一歩で、
朝顔につるべとられてもらひ水 千代女
になっていた。
二十七句目
松島の月松島の月
ひょっとした哥の五文字を忘れたり 聴雪
前句の「松島の月」の二回反復しているのを、何か思い出そうとしている場面として、和歌の最初の五文字が出てこないのか、と付ける。
二十八句目
ひょっとした哥の五文字を忘れたり
妻戸たたきて逃て帰りぬ 芭蕉
「妻戸」はコトバンクに「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「寝殿造の住宅で、出入口に設けた両開きの板製の扉。寝殿造では、周囲の建具は蔀(しとみ)であったため、出入りには不便であり、そのため建物の端の隅に板扉を設けて出入口とした。妻は端を意味し、端にある扉であるために妻戸とよばれた。寺院建築や神社建築では板扉を板唐戸(いたからと)という。妻戸は板唐戸の形式の扉であったため、この形式の扉は建物の端に設けられなくても、すべて妻戸の名でよばれるようになった。[工藤圭章]」
とある。
王朝時代の歌合の時に、歌の下手な人が事前に誰かに作ってもらってそれを覚えて行って披露するつもりだったのが、本番の時にその歌を忘れてしまったのだろう。妻戸を叩いて逃げ帰って行く。
和泉式部の娘の小式部内侍が歌合の時に定頼の中納言に、「母からの文(ふみ)は来たか」と代作を疑われたのに答えて、
大江山いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず天橋立
小式部内侍
と詠んだという話はよく知られている。
二十九句目
妻戸たたきて逃て帰りぬ
泣々てしゃくりのとまる果もなし 野水
何かひどい目にあったんだろうけど、もう少し具体的な内容に踏み込んでほしかった。遣り句か。
三十句目
泣々てしゃくりのとまる果もなし
あたら姿のかしら剃られず 如行
「あたら」は惜しい、勿体ないということ。出家の理由を聞き出すとその悲しい話に涙が止まらなくなり、剃刀を持つ手も止まってしまった。
このあたりも姿(具体性)に乏しく、時間が遅くなって進行を早めている感じがする。
0 件のコメント:
コメントを投稿