今日は曇っていて寒かった。小雨は降ったが雪にはならなかった。
夫馬賢治さんの『ESG思考』では「環境社会への影響を考慮すると利益減」の側で、「環境社会への影響を考慮への反対」ならオールド資本主義、賛成なら脱資本主義、いわゆる資本主義を否定する左翼ということになり、その反対の軸「環境社会への影響を考慮すると利益増」の側で「環境社会への影響を考慮への反対」の側に位置する「陰謀論」についてはほとんど言及されてなかった。賛成の方はいうまでもなくニュー資本主義(持続可能資本主義)になるわけだが。
今アメリカを騒がしている陰謀論というとQアノンだと思うが、これについて日本ではほとんどその内容は知られていない。ウィキペディアを読むと一応どういう陰謀をなのかわかるが、それによると、
「アメリカ合衆国連邦政府を裏で牛耳っており、世界規模の児童売春組織を運営している悪魔崇拝者・小児性愛者の秘密結社が存在し、ドナルド・トランプはその秘密結社と戦っている英雄である」
というわけだが、この陰謀説自体日本ではほとんど知られていないし信じる人も皆無といっていいだろう。
同じウィキペディアに、「日本でアメリカ大統領戦の不正などを主張するトランプ支持者などを「Qアノン」ならぬ「Jアノン」と呼ぶ人々もいる。」とあるが、「Jアノン」という言葉も今日調べて初めて知った。
筆者は毎日2ちゃんねるに目を通しているから、そこに書き込まれるネトウヨと思われる主張はよく知っているが、その中に児童買春組織が出てきたためしはない。日本の陰謀説のほとんどは中国政府かAntifaだ。BLMデモに関しても、トゥンベリさんについてもこの二つの陰謀という説は枚挙にいとまがない。
中国政府の陰謀という説は、ちょっと前の左翼が何でもかんでも安倍ヒットラーの手の上で動いているかのような陰謀説を信じてたのに似ている。中国政府は確かに不穏だが、その脅威を極端に拡大し、あたかも習近平が万能の神であるかのように祭り上げてしまっている。
コロナに関しても、日本ではコロナウィルス自体が架空のものだという説はあまり人気がない。コロナはただの風邪だという人はいるが、コロナそのものが存在しないという人はほとんどいない。
陰謀論の根底にあるのは持続可能資本主義が脱資本主義と同様、世界の文化を一元化するのではないかという不安ではないかと思う。世界に多種多様な民族文化があり、誰しもそのローカルな文化に所属している。ローカルな文化の中でそれぞれ生存の取引を行い、その中で少しでも良い生活を得ようと一生懸命になっている。それが「地球」の名のもとに破壊されることを恐れているのではないかと思う。
持続可能資本主義は当然ながら多様な文化習慣を容認することで多様な市場を生み出し、結果的にそれが経済成長につながる。それがきちんと担保されないなら、持続可能資本主義は自分たちが自発的に作り出すものではなく、外からやってきた得体のしれないものになってしまう。それが陰謀説を生む土壌になるのではないかと思う。
それでは「笠寺や」の巻の続き。
初裏。
七句目。
売残したる庭の錦木
ゑのころのかさなり伏て四ツ五ツ 菐言
エノコログサは猫じゃらしのこと。売れ残った空き家にエノコログサが枯れて伏せり、ニシキギが四五本残っている。
八句目。
ゑのころのかさなり伏て四ツ五ツ
むらむら土の焦し市原 執筆
市原は京都の北側、鞍馬や貴船への入口になる。元禄七年春の「五人ぶち」の巻二十七句目に、
むかしの栄耀今は苦にやむ
市原にそこはかとなく行々子 芭蕉
の句がある。京都の五山送り火では過去に市原で「い(かながしら)」の字の送り火が行われていたらしい。原田淑人さんの「生物学者はこんなことを考えている」というサイトに書いてあった。
その送り火が貞享の頃にあったかどうかはわからないが、「むらむら土の焦し」は野焼きの情景だろう。
九句目。
むらむら土の焦し市原
旗竿に藪はほられて風の音 知足
市原合戦であろう。ウィキペディアに、
「市原合戦(いちはらかっせん)は、治承4年(1180年)9月7日に信濃国で起きた合戦。「善光寺裏合戦」とも呼ばれる治承・寿永の乱の中で起きた合戦の一つ。史料上に初めて現れる源義仲が関与した戦いである。」
とある。木曽義仲が大軍を率いてやってきたため笠原平五頼直の軍は逃げ出し、残ったのは風の音ということか。
十句目。
旗竿に藪はほられて風の音
下部の祖父と女すむ家 如風
下部(しもべ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 雑用に使われる者。召使い。「神の―」
2 身分の低い者。
「この魚…頭は―も食はず」〈徒然・一一九〉
3 官に仕えて、雑役を勤めた下級の役人。
「―ども参ってさがし奉れ」〈平家・四〉」
とある。武家に周りの藪が切り払われてしまい、風が直に家に吹き込むようになった。「女すむ家」というところで恋呼び出しになる。
十一句目。
下部の祖父と女すむ家
きぬぎぬのまた振袖に烏帽子着て 自笑
振袖は「ふるそで」であろう。「袖振る」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 合図として、または別れを惜しんだり、愛情を示したりして、着物の袖を振る。
※万葉(8C後)一・二〇「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖(そで)布流(フル)」
とある。
後朝に別れを惜しんで袖を振るが、そこに烏帽子の祖父さんが必ず現れて、二人っきりにしてくれない。
十二句目。
きぬぎぬのまた振袖に烏帽子着て
恨みを笛に吹残しける 安信
通ってきたのは烏帽子を着て笛を吹く貴公子だった。
十三句目。
恨みを笛に吹残しける
曇るやと夷に見せたる秋の月 重辰
本歌は、
あやなくも雲らぬ宵をいとふかな
信夫の里の秋の夜の月
橘為仲(新古今集)
だろうか。前句の「恨み」が陸奥に流された人の情になる。
十四句目。
曇るやと夷に見せたる秋の月
露さぶげなり義経の像 菐言
元禄九年の桃隣の「舞都遲登理」の旅の平泉の所に「義經像・堂一宇。辨慶櫻、中尊寺入口ニ有。」とある。それ以前の尾張の方でも噂に聞いていたか。
十五句目。
露さぶげなり義経の像
白絹に萩としのぶを織こめて 如風
これは想像だろう。義経の像といえば白装束に宮城野の萩と「みちのくのしのぶ文知摺」に掛けてシノブの葉を織り込んでというのが似合いそうだ。
十六句目。
白絹に萩としのぶを織こめて
院の曹子に薫を乞 知足
「曹子(ざうし)」は御曹司のこと。院は上皇や女院にも用いられるが、この場合は単に貴人の邸宅のことであろう。そこの白絹に萩としのぶを織こめた着物を着ている御曹司に薫物をもらいにゆく。
十七句目。
院の曹子に薫を乞
廊を双六うちにしのびより 安信
「廊」は「わたどの」と読む。屋根のある渡り廊下で前句の院を寺院としたか。『冬の日』の「つゝみかねて月とり落す霽かな 杜国」を発句とする巻の十一句目に、
蕎麦さへ青し滋賀楽の坊
朝月夜双六うちの旅ねして 杜國
の句がある。寺に双六うちは付き物なのだろう。
双六はバックギャモンのことで、ギャンブルに用いられていた。ここでは双六の負けの借金の代わりに高価な薫物を要求するということか。
十八句目。
廊を双六うちにしのびより
火を消す顔の憎き唇 重信
双六うちとの密会。
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