2021年1月8日金曜日

  『俳諧問答』の続き。

 「一、千那 上方の高弟ニして、器もすぐれてよし。論ぜば、尚白が器ハ鈍にして重し。千那の器ハ勝れていき過たり。花実は花過たり。とりはやしも得られたる故に、弥実をかくす味あり。
 風雅二ツ、世用八ツ有。たまたま残りたる二ツの風雅、八ツの世用の盛なるに寄て、次第に押領せらる。
 たとへバ脾腎の虚を煩ふ人、火気のさかむに上て、わづか残たる脾土を焼がごとし。次第に肺の気もよハりぬる故に、水を増す事かたし。
 久しく師説にはなれて、流行の堀切ハ出来、八ツの世用の火気はハ上るに寄て、元気次第によハれり。病の癒る期ハあるまじ。
 此人の俳諧のいき過たると云ハ、われ斗面白おもふといへ共、人會てうれしがらず。たとへバ卯月朔日衣がへの日、紙帳を売来る人あり。師ノ云々、これいき過也。しかも其年寒して火燵を離れず。人の売ざる内ニうるべしとおもひて、紙帳紙帳といへ共、人の気移らず。ありがたきたとへなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.215~217)

 千那は『野ざらし紀行』の頃からの芭蕉の古い門人で、近江の堅田本福寺の住職だという。「器もすぐれてよし」は去来・支考と並ぶ。尚白の「鈍にして重し」は杉風の「器も鈍ならず」よりかなり落ちる。乙州・北枝の「器大方也」よりも下か。
 器のすぐれて良しとはいうものの、器ハ勝れていき過たりとあるのは、才能はあるのだけど一般受けしないということか。そのあとの「俳諧のいき過たる」のことをいうのであろう。
 紙帳の例えはわかりにくいが、先を行き過ぎて売れないということか。今でも発売するタイミングが早すぎて売れなかった商品というのはある。
 紙帳(しちょう)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「和紙製の蚊帳(かや)。紙布を糊(のり)付けして張り合わせてつくる。『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(1853序)には図入りで掲げられ、上部が狭く下部が広くなっているものが江戸で売り物とされたこと、あちこちを地紙(じがみ)形(扇形)、団扇(うちわ)形などに切り除き紗(しゃ)を張ってふさぎ使ったことなどが述べられている。『理斎(りさい)随筆』(1823序)には、安価で寝姿が見えないなどと、紙帳の十徳が説かれている。石見(いわみ)(島根県)の山村では明治末まで蚊帳として使用されたし、会津(福島県)では柿渋(かきしぶ)で補強した紙布を敷き、作業用としてカヤとよばれる紙帳を吊(つ)り、その中で紙製の帽子をかぶって、製蝋(ろう)用のキノミ(漆の実)搗(つ)きをしたという。[天野 武]」

とある。
 「花実は花過たり。」というのは杉風の「花実ハ実過たり。」の真逆になる。「風雅二ツ、世用八ツ有」はそのまま実二花八ということか。世俗に通じ花はあるが流行の先を行き過ぎて失敗しているということなのだろう。
 李由・許六編の『韻塞』にも千那の句は多く見られる。

 水鼻にまこと見せけりおとりこし 千那

 「おとりこし」は親鸞の命日の報恩講を本山と重ならないように繰り上げて行うことで、各自の家で行われて、お坊さんが来てくれるという。そのお坊さんが寒さに水鼻を垂らしているが、それでもわざわざ来てくれたというところに誠を感じるということか。「水鼻にまこと見せけり」で何だろうと思わせる所が上手い。
 『韻塞』のこの句の一つ前は、

 時雨来る空や八百屋の御取越  汶村

の句で、これも時雨の季節に八百屋までやってきてくれるという意味だろう。

 寒き日は猶りきむ也たばこ切  千那

 「たばこ切」は畳んだ煙草の葉を小さく切り刻む作業のことか。夏に採れた煙草の葉は乾燥させ、冬に刻み煙草になる。

 氷魚といふ名こそおしけれとしの暮 千那

 氷魚(ひお)はアユの稚魚で冬の琵琶湖で獲れる。元禄二年、芭蕉は膳所で、

 霰せば網代の氷魚を煮て出さん 芭蕉

の句を詠んでいる。

 「一、尚白 是も上方の高弟也。師説を久しくへだてたれバ、弥旧染の病再発したり。
 かれが器の鈍して重き所ニ、一風面白き胴切たる所あり。師此胴切たる事を、たすけて用ひ給へり。今ハ其筋もわすれたり。たとへバ五人持の石瓶の底のぬけたるがごとし。
 一年わすれ梅と云集を作らんとせし時、師次第に流行し給ふに寄て、かるみを説り。此かるミ力落て、今に其集ならずして年経ぬ。
 たとへバ深き井のもとに落ておぼるる人在。師のたすけに寄て、水ぎハまで引上ゲ給へり。もとのくるしミをわすれて、爰ぞ世界とおもへる時、師ハ井輪・石垣をはね上て、かるみハ爰也、此所へ来れりとおしへり。
 落たる人、師のまねをしてはね上らんとする時、例の鈍き重き器なれバ、もとの水底へ沈ミ、ひた物迷て、あらぬごみをたてるがごとし。
 今とでも、一度師のたすけに寄て水ぎハ迠ハ引上られたれバ、其道を尋て、それより次第次第に石を這ひ、輪を攀て上り侍らバ、おもく鈍共、流行せざる事ハあるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.217~220)

 「又俳諧する事、都合四・五年、数千言・数万言、相手を嫌ハず。其内ニ大津尚白ニ両度対して大意を求む。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86)とあるように、許六はかつて尚白に教えを乞うたこともあった。尚白の方は貞享二年芭蕉の『野ざらし紀行』の旅で弟子になり、蕉風確立期の風を学んでいる。
 「器が重い」というのは保守的ということか。「胴切(どうぎる)」というのは、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 胴切りにする。筒ぎりにする。
  ※太平記(14C後)八「五尺三寸の太刀を以て、敵三人懸けず筒切(ドウギッ)て」
  ② 大胆自由に事を行なう。きままに処置する。
  ※日葡辞書(1603‐04)「ドウギリモノ。または、Dôguitta(ドウギッタ) ヒト」
  ※歌舞伎・桑名屋徳蔵入船物語(1770)二「御出家の托鉢余り胴切って承知仕った」

とある。この場合は②の意味で、新風を起こすだけの大胆さがなかったのだろう。芭蕉の助けで大胆な句も詠めたが、師亡きあとはその筋も忘れ元に戻っているというのだろう。
 「わすれ梅」は、ウィキペディアに、

 「句集 忘梅
 この書の出版を巡り芭蕉との師弟関係が崩壊した。芭蕉からの千那宛書簡(元禄4年9月28日)は関係崩壊の過程を示す貴重な書簡である。「忘梅」に千那が書いた序文について芭蕉が朱を入れたことで確執が生じたことに端を発した。これ以後、芭蕉と、千那や尚白との文通は残っていない。大津蕉門には、森川許六・河合乙州・菅沼曲水・高橋怒誰等の次世代門弟と、初代門弟との間には何時しかそよそよした隙間風が吹くようになっていった。芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡(元禄6年5月4日)「尚白ごとき」と記され垣間見える。」

とある。その元禄四年九月二十八日付千那宛書簡には、

 「尚白集御序文下書先日被遣候を考候處、集之序に難仕候故、下書なる程あら方したため候。」

とある。そして、

 「芭蕉門に入りと云處、尚白心入も候はば御除可被成候」

とあるように、「芭蕉門に入り」というところを抹消するということは事実上の破門となる。
 そして元禄六年五月四日付許六宛書簡には、

 「御帰国被成候はば、去来へ御通し可被成候。拙者方よりも可申遣、是も一人一ふりあるおのこにて、尚白ごときのにやくやものに而は無御座候。」

とある。許六が江戸から彦根に帰る直前、芭蕉が其角の所に行っている留守に許六が芭蕉庵を尋ね行き違いになった後の書簡で、彦根に帰った後は去来を頼るようにと書き残す傍ら、尚白に頼ってもしょうがないようなことを言っている。「にやくや」はgoo国語辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 「にや‐くや の解説
 [副]あいまいでにえきらないさま。
 「懐中が乏しきゆゑ、―の挨拶をしてゐるに」〈滑・続膝栗毛・七〉」

とある。
 師匠のこの言葉を元に、許六は去来に手紙を書き、この『俳諧問答』のきっかけにもなっている。許六の尚白の評価も「にやくやもの」つまり腰の重い保守的な、ということになっている。
 芭蕉の死後、

 しけ絹に紙子取あふ御影哉   尚白

の追悼句が其角撰『枯尾花』に、記されている他、元禄七年十月十八日於義仲寺追善之俳諧百韻にも参加し、

   ふとんを巻て出す乗物
 弟子にとて狩人の子をまいらする 尚白

   里迄はやとひ人遠き峯の寺
 聞やみやこに爪刻む音     同

   木像かとて椅子をゆるがす
 三重がさねむかつく斗匂はせて 同

   三河なまりは天下一番
 飯しゐに内義も出るけふの月  同

という句を付けている。
 そしてしばらくの沈黙の後元禄十五年刊惟然撰『二葉集』に、

   閑居のこころを
 竹といへば痩藪梅は老木かな  尚白

の句を寄せている。

 「一、李由幷予が風雅ハ、よくしり給ふ上なれバ、論ずるにたらず。たとへバ作のしれぬ打物、しかも疵がちなり。しかれ共、わざのさハりにならぬ疵なれば、骨の切るをとり得とするのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.220)

 「よくしり給ふ」というのは自分と最も近い弟子だから論じるべき相手ではないということだろう。
 「打物」はこの場合は刀剣のことだろう。無名作者の疵物と謙遜してはいるが、問題にならないような疵でばっさりと骨を断つ。上級武士だけあってなかなか勇ましい例えだ。

 「一、師 諸門弟の得たる所、一ツも欠たる事なし。師の得たる所ハ一所も虚なき故に、鉄壁をたてるがごとし。故に位高くして徳甚だ篤し。何人が後代に到ても、此翁を押者あらむや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.220~221)

 師匠は完全無欠で鉄壁。まあ、確かに三百年以上もたった今でも芭蕉を越える者はいない。芭蕉の句は誰もが何句か思い出せるが、他の作者の句はなかなか思い出せないものだ。観念的な美学を振り回して越えたと論じることはできるかもしれない。だが、芭蕉程国民的に、否国外でも親しまれている俳人はいない。
 「押す」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①動かす。押す。
  出典枕草子 日のいとうららかなるに
  「櫓(ろ)といふものおして、歌をいみじううたひたるは」
  [訳] 櫓という物を押して、歌をさかんに歌っているのは。
  ②前に進める。
  出典源氏物語 玉鬘
  「唐泊(からとまり)より川尻(かはじり)おすほどは」
  [訳] 唐泊から川尻へ舟を進める間は。
  ③押し当てる。
  出典源氏物語 常夏
  「みな、いと涼しき勾欄(こうらん)に背中おしつつ、さぶらひ給(たま)ふ」
  [訳] 皆とても涼しい欄干に背中を押し当てながら控えていらっしゃる。
  ④圧倒する。
  出典源氏物語 桐壺
  「右の大臣(おとど)の御勢ひは、ものにもあらずおされ給へり」
  [訳] 右大臣のご威勢は問題にもならず(左大臣に)圧倒されてしまわれた。
  ⑤張り付ける。印をおす。
  出典平家物語 一・殿上闇討
  「中は木刀(きがたな)に銀箔(ぎんぱく)をぞおしたりける」
  [訳] 中身は木刀に銀箔を張り付けてあった。
  ⑥すみずみまで行き渡らせる。
  出典万葉集 一〇七四
  「春日山おして照らせるこの月は」
  [訳] 春日山をすみずみまで行き渡らせて照らしているこの月は。」

とある。この場合は④の意味であろう。今日のような「推薦する」の意味はない。

 「此外の門人、野辺のかづら、林の木葉に等し。論ずる詞もなし。
 右七拾余枚の長編、先生の意見もかへりミず、しかも能しり給ふ所といへ共、予が腸を引出して書之。同門のよしミ、就中先生と予ハ骨肉のおもひをなす故也。必他見他言可蒙御用捨者也。
 于時元禄十一戊寅春三月 於風狂堂述
         五井老主人
            森許六草稿
  呈落柿舎主人
    去来先生梧右下」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.221~222)

 他の門人のことはよくわからない。まあ、とにかく公表を前提とした論ではなく、くれぐれも内緒にしておいてくれ、ということでこの「同門評判」は終わる。

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