今年は一日二日と家に籠り、三日朝未明に近所の伊勢社へ行って静かに初詣をした。
そして四日。今年は仕事始めはない。還暦を迎え、隠棲することにした。何か庵号でも考えようかな。
それでは『俳諧問答』の続き。
「一、槐之道諷竹 天性柔弱也。久しく草薬をなめて、薬毒になやまされ侍る。然共其薬毒の力に寄て、相応にとりはやせり。
細かに脈を窺に、的中すべき良法なし。本病治しがたからん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.196~197)
病弱で薬に依存していたようだ。どのような薬かはよくわからない。一説には薬種商を営んでいたともいう。
誠実だがおとなしい性格が洒堂と合わなかったのだろう。もともと之道のいる大阪に近江から洒堂が乗り込んできて喧嘩になった所を仲裁するために、芭蕉は死の間際にありながらもわざわざ大阪までやってきたという。そしてそこで芭蕉は息を引き取った。
句の取り囃しも血脈もそこそこというところか。
「一、風国 発句、血脈の筋慥ニ見届がたし。雨中の花の泥を上たるがごとし。風雅ハ容易なるがよしとおもへるにや。かたのごとく麁抹也。
然共俳諧巻にハ、花実共ニ有て、しかもとりはやしも見えたり。元来俳諧血脈に気がつきたり。発句なけれバ詮なし。たとへバ時代物の硯のふたのなきに、今様新町もののふたをとり合せたるがごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.197)
付け句はいいが発句が駄目で、年代物の硯に新しい蓋をかぶせたようなものだという。
風国というと『去来抄』同門評に「晩鐘のさびしからぬ」という句を詠んで去来に「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋」と直されたことでも知られている。
芭蕉の晩年の初期衝動を重視した時期に入門したため、去来が叩き込まれた古典の本意本情を無視することが多かったのだろう。その結果「なんで?」という句になってしまったわけだ。本人はわかっていても、多くの人は古典の素養をベースに、あるいはその習慣化した意味空間を元に読解するわけだが、そこがよくわかってなかったか。
浪化編の『有磯海』に採られた句は、そこのところはかなり修正しているのだろうけど、たとえば、
猫の恋風のおこらぬ斗なり 風国
の句は、やはり「なんで」という感じだ。猫があわただしく騒いで喧嘩したり駆け回ったり賑やかなのに、何で「風のおこらぬ?」となるのではないか。まあ、一時期過ぎたら何事もなかったかのように元に戻るから、結果的に「風のおこらぬ」なのか。
籠かきの仏見事や玉まつり 風国
これは庶民であってもご先祖様は見事に祀られている、というので悪くはない。
秋もはやくるるとしらず飛いなご 風国
これも秋が終わり死が訪れるとも知らずに飛び回るイナゴの哀れが表れていて悪くはない。
芋ほりに男はやりぬむら時雨 風国
この場合の「はやりぬ」はいらつく、ということか。芋を掘っていた時に時雨に降られ、掘り続けるべきか雨宿りすべきか迷うということで、ありそうなことだ。自然薯掘りなら確かに途中でやめたくはないだろう。このあたりは「はやしも見えたり」ではないか。
付け句の方も支考編『笈日記』の去来・支考・風国の三吟を見る限り、あとの二人に負けてはいない。
笠着せて先へたてたる乙むすこ
みえた通は伯母むこの山 風国
「乙むすこ」は末っ子のこと。兄たちに見て来いと言われて先に行くと伯母婿の山だったというわけだ。何となくこの兄弟が苦手としている人で、末っ子が貧乏くじというのが伝わってくる。まあ、子供なら多少のことは許してくれるか、というところか。
壁うちはなす二枚戸の間
あほうめを使にやりて案じゐる 風国
「壁うち」は特に返事を求めるでもない会話で大体愚痴やぼやきが多い。二枚戸の間というから奥の部屋に人がいるということか。「あほうめを使にやりて」でなるほど、となる。
土用の風のきのふけふ吹
木曽川のゐせきにかかる十五村 風国
土用の風が吹くとそろそろ野分の季節。木曽川の井堰ではどこに増水した水を流すかは死活問題だ。十五の村の運命はいかにというわけだ。
まあ、なかなか庶民の情の細かいことに気づく人のようで、古典には弱いけど俳諧の取り囃しは上手いというのが許六の評価といっていいだろう。
「一、支考 器すぐれてよし。花実大方兼備せり。しかもとりはやし得もの也。難じていはば、実うすきがごとし。一句ふミ込たる事も、雨中にミの笠かりて薄習ひに行人のごとし。
文章かかせてもきき事なり。かたハし文章にいやをかけるといふ人もあれ共、門人の内此人に類する人なし。
慥に血脈の俳諧なり。とやかく噂する人あり共、それハ血脈の筋をしらぬ人なれバ、日々にふるく成て、後にハ俳諧やめるより外ハなき物也。しらず共、此風を学で俳諧せば、おのづから此僧に随て流行すべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.198~199)
「器すぐれてよし」は去来と並ぶ。去来が花三実七だったのに対し支考は「大方兼備」「実うすき」だから花六実四くらいか。
「雨中にミの笠かりて薄習ひに行人」というのはあざといということか。藤中将実方が花見で雨に降られたときに一人平然と雨に打たれながら、
さくらがり雨はふり来ぬおなじくは
濡るとも花の影にくらさん
と詠んだエピソードを思わせる。
文章が「きき事」だというのは「みもの、ききもの」と同様、聞くだけの価値があるという意味だ。実際許六撰の『風俗文選』に支考の文が多数採られている。
「慥に血脈の俳諧なり」というのは、許六の場合自分の体験から「底を抜く」というところを大きく評価しているが、支考には確かにそういう才能があった。「血脈を知らず」と評する場合は「ありきたり」「月並み」と言ってもいいのかもしれない。流行に乗った俳諧ではなく流行を作る才能があるということだ。
「一、杉風 廿余年の高弟、器も鈍ならず、執心もかたのごとく深し。花実ハ実過たり。
常ニ病がちにして、しかも聾也。
師ハ不易・流行を説てきかせたりとおもへ共、杉風が耳にハ前後半分ならでハ入がたし。故に半分ハ流行して、半分ハ廿余年動かず。しかれ共、久しく名人に随ふ故に、別座敷に少血脈あらハれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.199~200)
芭蕉の延宝の頃からの高弟で、芭蕉が「去来は西三十三国の俳諧奉行、杉風は東三十三国の俳諧奉行」といったというくらいの忠実な弟子だったようだ。まあ、「奉行」という言葉には「堅い」という意味も込められてるかもしれないが。
「器も鈍ならず」の言い回しも微妙で、去来・支考の「器すぐれてよし」からすると落ちるような評価だが、乙州の「器も大方也」よりは上だろう。丈草の「器よし」と並ぶくらいの所か。
許六が江戸で芭蕉と対面した頃には杉風の参加はなく、その一年後の『炭俵』の頃に復帰している。だから面識があったかどうかはよくわからない。となると「常ニ病がちにして、しかも聾也。」はあくまで噂の可能性もあるし、不易流行説を聞いたかどうかも推測だろう。
『別座敷』の「紫陽花や」の巻二十三句目の、
五つがなれば帰ル女房
此際(このきは)を利上ゲ計に云延し 杉風
の句は経済ネタで、景の句が多い中でもこういう句にも果敢にチャレンジしている。
「一、晋氏其角 器極めてよし。とりはやす事も、表に上手をあらハせしゆへに、諸人に奥をミすかされたり。己が一筋ハかたのごとく得たりといへ共、外の道筋をしらざるゆへ、かたのごとくせまし。
たとへバ堀ぬきの井を見るがごとし。水脈まで堀付たりといへ共、五湖の広さをしらざるに似たり。
風雅をよくつかひて遊ぶ故に、一生の発句多し。是余事になやまされざるしるし。
題ハかはり斗にて、一句のとりはやし、いつも同じ釜より出て、己が財宝をひたものぬすめるに似たり。発句と俳諧と論ずる時ハ、遥かに発句得物也。俳諧ハふるし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.200~201)
「器極めてよし」は去来・支考より上ということか。才能はずば抜けているが、技術や素養を前面に押し出して世間にアピールするようなところがあり、逆に底が見えてしまう。それとなく仄めかすようにやれば、読者が勝手に想像して底知れぬ人に思わせることができたのにというところか。
其角というとたとえば、
手握蘭口含鶏舌
ゆづり葉や口に含みて筆始 其角
の句を詠んだ時に、芭蕉が萬代不易の句だがこの前書きは不要と評されたように、手の内を見せてしまう傾向があった。
「手握蘭口含鶏舌」という前書きは、岩波文庫の『芭蕉書簡集』の萩原恭男の注によれば、「漢の尚書郎が口に鶏舌香を含んで奏上し、蘭を握って朝廷に出仕した故事」だという。貞門・談林の時代だと證歌を必要とするように、新しい趣向であっても古典の何かに由来が必要で、その由来を共有することで句が理解可能になると考えられていた。それは江戸上方の町人の間での共通語が未発達であるため、古典の言葉で語る必要があったからだ。
芭蕉が「軽み」を打ち出すころには、こうした出典や證歌をはずしても既に都市での共通言語がある程度形成され、理解可能になっていたという事情があったのだと思う。いわば俳諧の言葉が雅語や漢詩や謡曲の言葉に代わる新しい共通語になっていたからだ。
ただ、其角は出典のある難解な言葉を自在に使いこなす才能があったばかりに、日常語に近い言葉と趣向で作るということに長いこと抵抗があったのだろう。ただ、終生芭蕉を慕い、偶然にも芭蕉の終焉にも立ち会うことができた。
笠重呉天雪
我雪とおもへばかろし笠の上 其角
も多分芭蕉ならこの前書きは不要と言いそうだ。ただ、出典のある言葉へのこだわりが其角だったし、それは古い時代の習慣でもあった。
声かれて猿の歯白し峯の月 其角
は峯の猿の鳴き声というと古典的なテーマを「猿の歯白し」と取り囃したところには新味があるが、
塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 芭蕉
の句のように、同じテーマを日常の風景に移し替えるような操作は苦手だった。
出典を隠さず元ネタがわかってしまうところで其角は底が見えてしまうのに対し、芭蕉はそれを句の裏に完全に隠してしまう才能があった。
李由・許六編『韻塞』の
饅頭で人を尋ねよ山ざくら 其角
楠の鎧ぬがれしぼたんかな 同
なよ竹の末葉残して紙のぼり 同
月影やここ住よしの佃島 同
は、山桜に酒となるところを「饅頭で人を尋ねよ」と取り囃したり、巨木の楠に大輪の牡丹を取り合わせて「鎧ぬがれし」と取り囃したり、と句は謎めいてはいるが、特に深い意味はない。なよ竹の句は神社に奉納される紙幟の竹に葉っぱが残ってたりするというあるあるネタと思われる。佃島の句は住吉神社があるのに掛けて、月の澄むと住吉を掛詞にするという古典的なものだ。
付け句の方はというと、この時代に近い元禄十年刊桃隣編『陸奥衛』の句を見てみると、
山吹あるはみな戻り駕籠
鯉喰て鬢を撫でたる春の風 其角
の句は、「鯉喰て」と囃してはいるものの山吹に春風という古典的な物付け。
駕を緣まで上る武士めかし
一里前から音大井川 其角
も駕(のりもの)に旅体で大井川の発想は特別なものではないし、それが一里前から聞こえるという取り囃しも大げさな上に月並み。
藪の中にてつかふ洗足
繋がれて間なく動かす馬の舌 其角
これも藪の中の洗足に馬を止めてという心付けに「馬の舌」で取り囃しているが、新しさは感じられない。何とか「軽み」についていこうとした先の杉風の句と比べると、後退しているように感じられる。
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