2020年12月30日水曜日

  今日は霜月十六夜の満月。新暦では今年も明日で終わり。
 来年がいい年になるかどうかはわからないが、とにかく生きていかなくちゃね。生きていればそのうちいいことあるよ。ホントそんな感じの年の暮れだね。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、昌房、探志、臥高、其外膳所衆、風雅いまだたしかならず。たとへバ片雲の東西の風に随がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.192)

 昌房は『猿蓑』にもわずかに入集があり、浪化編『有磯海』にも、

 あさがほや宵のかやりの焼ほこり  昌房
 新田に水風呂ふるるあられ哉    同

の句がある。
 後に惟然編『二葉集』(元禄十五年刊)の、

 そんならば花に蛙の笑ひ顔     智月

を発句とする興行の七句目には、

   くわつと薄もみゆるしんなり
 参詣もなければ秋の水もまた    昌房

の句も見られる。
 探志は探子ともいう。

 さび鮎や川を寝て来て海の汐    探志

の句が『猿蓑』にある。「さび鮎」は落ち鮎のことで、産卵前になると腹部が赤くなる。産卵期になると鮎は河口域へ下るので、川に寝て海の汐にもさらされることになる。
 『有磯海』にも、

 番の火を便にねるや鹿のなり    探志

の句がある。
 臥高も『有磯海』に、

   正秀が方へまかりけるに、物一ッ
   謂ほどもなく、枕引よせて共にね
   にけり。ややふくるまま、おどろ
   き立かへるとて
 宵の間をぐつとねてとるよ寒哉   臥高
   かへし
 あんどんをけしてひつ込よ寒哉   正秀

の句がある。何しに行ったんだろう。
 他にも、

 蔦の葉や貝がらひらふ岩の間    臥高
 ふるふると昼になりたる時雨かな  同
 川こえて身ぶるひすごし雪の鹿   同
 日の縁にあがる大根や一むしろ   同

などの句が『有磯海』に見られる。
 許六の評は、句風が定まらないということか。

 「一、伊賀連衆ハ、師の故郷ゆへに手筋ハよし。しかれ共一人切て出テ、上洛するほどの大将の器なし。たとへバ天鼓の鼓のごとし。
 近年諸集に出る伊賀の俳諧を見るに、打ツ人に応じて鳴る。支考が打時ハ、大方王伯がうてるがごとし。南都の者のうつ時ハ、道場太鼓にハおとれり。翁在世の時ハ、天鼓出て直に打がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.192~193)

 伊賀というと『三冊子』を書いた土芳はよく知られているが、それ以外はというとそんなに目立った人はいない。
 元禄七年七月二十八日に

 あれあれて末は海行野分哉     猿雖

を発句とする興行を行った猿雖(えんすい)も伊賀の人で、この巻では配力(はいりき)、望翠(ぼうすい)、雪芝(せっし)、卓袋(たくたい)、木白(ぼくはく)などの伊賀の連衆が参加している。
 元禄八年刊の支考編『笈日記』は伊賀郡から始まるが、ここに、

 山桜世はむづかしき接穂かな    猿雖
 戸を明るあたりやくはつとむめの花 望翠
 鶯に底のぬけたるこころ哉     土芳
 顔見せよ鶯くぐる垣の隙      卓袋
 山吹に頭あけたり柿頭巾      配力
 手間いれて落る木の葉や森の中   雪芝

といった句が見られ、猿雖・支考・土芳・万乎・卓袋による五吟歌仙が収められている。許六は天鼓に喩えるが、このあたりが「支考が打時ハ、大方王伯がうてるがごとし。」になるのか。
 謡曲の『天鼓』は中国を舞台としたもので、いわば打つ人を選ぶ鼓で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「少年楽人の天鼓は天から授かった鼓を帝に献上するのを拒み、呂水に沈められ殺される。その後、鼓は鳴らなくなるが、天鼓の父が打つと妙音を発する。帝が哀れを感じて追善の管弦講を催すと、天鼓の亡霊が現れ、鼓を打ち楽を奏する。」

とある。王伯は天鼓の父で、妙音を発しはするが天鼓には及ばない。支考は王伯、芭蕉は天鼓というわけで、膳所の三人と同様句風が定まらず、指導者次第ということなのだろう。

 「一、乙州 器も大方也。第一ハ師の恩に寄て、乙州といふ名ハ出たり。おりふし血脈の筋をいへるといへ共、かれ是を弁じて出すにあらず。有事も無事も、かれ慥ニハしるまじ。
 たとへバ舟にのれる人、舟中ニ前後もしらず寝たり。于時順風出て着船するがごとし。
 翁追善に木節両吟の俳諧、自慢の俳諧あり。路通が行状記に出たり。其巻ニ云、発句・脇、師の噂也。又奥に、師の噂の句二ツあり。かやうニ一巻の中に幾所に出してモ、くるしからぬ格式ありや、しらず。たまたま一句などハ、其恩をわすれぬ便ともいふべし。度々の事にてうるさく侍る也。
 発句にめだちたる事あるハ、一番奥までも、遠輪廻とてせぬ事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.193~195)

 去来は「器すぐれてよし」、丈草は「器よし」だったから、乙州の「器も大方也」はそれよりは落ちるということか。
 智月尼の弟だが、嫡子にしたことで乙州からすれば智月は姉であり母でもあるということになる。
 許六から見ると師の血脈を受け継いだような句を詠むこともあったのだろう。ただ血脈を説くことはなかったし、血脈のことをはっきりわかっているわけではなかったとしている。
 船に喩えれば、ただ船の上で寝ているだけで、于時(ときに)順風が吹くことがあれば、うまく岸に着くことができるといった程度だという。

 「一、智月 一筋見えたり。乙州より遙にすぐれり。しかれ共、仕習の朝より終焉の暁までの俳諧に、五色の内只一色を染出せり。これハ女の風雅なればなり。
 かれが風雅の美をいはば、生涯の句、ひたすら智月といへる尼の句にして女の形をよくあらハせり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.195~196)

 「一筋見えたり」というのは、多分他の男性作者とは異なる筋を持っているということだろう。「乙州より遙にすぐれり」は器のことだろうか。丈草クラスと見ていいのだろう。
 「仕習の朝より終焉の暁までの俳諧に、五色の内只一色を染出せり」は出家前は家庭に出家後は寺に縛られ身動きが取れなかったからで、奉公や興業や旅などとも無縁だったからであろう。これは当時の女性としてはかなり宿命的なものだった。
 家に縛り付けられた女性の風雅として、一つの体を確立したという点では画期的だったということで、許六としてはこれが最大限の評価だったのだろう。
 なお、この「同門評判」で智月は唯一の女性で、羽紅や園女には言及していない。

 見やるさえ旅人さむし石部山    智月

は自分が旅人になることがなく、あくまで見送る立場からの句。

 やまつゝじ海に見よとや夕日影   智月

 これも山躑躅に見ることのない海を想像する体になっている。

 待春や氷にまじるちりあくた    智月
 鶯に手もと休めむながしもと    同

は家事をする者の視点。

 やまざくらちるや小川の水車    智月

も花見に遠く流れ来る花を見る。

 しら雪の若菜こやして消にけり   智月

 これも自らを子を産み育て次世代につなぐ肥しとみなす。これらは女として生まれた苦悩で、現世の苦しみを逃れ去ろうとする男の風雅に同調してはいない。「ひたすら智月といへる尼の句」は漂泊も遁世も成仏もない閉塞された世界の句を貫いたという意味だろう。

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