一日の新規感染者数が三千人を越えた。北海道は一時期減り始めていたが再び上昇たのは寒さが厳しくなったせいか。東京・大阪は高止まり。知事がそれなりに動いた結果だろう。それに引き替え神奈川県の黒岩知事は何もしない。
トランプさん、もう無理だからJFK暗殺の真相ばらしちゃったら。
それでは「俳諧問答」の続き。
「初雪やいつ大仏の柱たて 翁
これ大仏建立ハ、今めかしきやうなれ共、此ふるき事万里の相違あり。初雪に扨々よき取合物、初の字のつよミ、名人の骨髄也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.185)
この句は芭蕉が『奥の細道』の旅の後、いったん伊賀に帰省し、そのあと路通とともに奈良へ行ったときの句で、元禄三年正月十七日付の万菊丸宛書簡に、
南都
雪悲しいつ大仏の瓦ふき
の句があり、こちらが初案と思われる。
奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページによると、永禄十年(一五六七年)の三好・松永の兵火で多くの建造物が焼失し、大仏も原型を留めないほどに溶け崩けてしまったが、その後少しづつ復旧作業が進められていったという。江戸時代に入ると、
「貞享元年(1684)公慶が大仏の修理のために勧進を始めたことから、東大寺の復興事業が本格的にスタートしました。これは江戸や上方などの都市部で大仏縁起の講談と宝物の拝観を行う、「出開帳」(でがいちょう)の方式を用いたキャンペーンでした。この方法は、大仏の現世利益・霊験を期待する民衆の信仰心をつかみ、多額の喜捨を集めて大仏修理の費用をまかなうことができました。その翌年には大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所として龍松院が建てられています。
大仏修理の計画が具体化していくにつれ、奈良の町では大仏講という組織が編成され、勧進帳が作成されるなど、大仏復興への気運が地元でも盛り上がりました。そして貞享3年(1686)には大仏の修理が始まり、そのわずか5年後の元禄4年(1691)には大仏の修理は完了し、その翌年には大仏開眼供養が盛大に営まれました。このとき、奈良は空前の賑わいをみせたといわれています。」(奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページ「東大寺の歴史」3、江戸時代の東大寺)
とあり、芭蕉が訪れた元禄二年冬には大仏本体は修理の真っ最中で、大仏殿はまだ手付かずだったようだ。
大仏修復の真っ最中の句で、その意味では流行の題材の句だが、大仏の有難さそのものは古くからある題材で、大仏殿の荒れたるを悲しむ心情を雪に託している。
大仏というと、貞享五年春、『笈の小文』の旅の途中の伊勢護峰山新大仏寺で、
丈六にかげろふ高し石の上 芭蕉
の句を詠んでいる。荒れ果てたといえば、貞享元年『野ざらし紀行』の旅で熱田神宮を訪れた時、
しのぶさへ枯て餅かふやどり哉 芭蕉
の句を詠み、その惨状を訴え、やがて修復が行われ、貞享四年冬、『笈の小文』の旅で再び訪れた時には、
磨なをす鏡も清し雪の花 芭蕉
と蘇った熱田神宮を喜んでいる。
こうした句は決して「滅びの美学」だとかいうものではなく、あくまで滅んでいくことを嘆き悲しみ、滅ばぬことを願い、保存や再興を訴えるものだった。
初雪やいつ大仏の柱立て 芭蕉
の句も、大仏だけでなく大仏殿も早く再建されることを願っての句だった。
熱田神宮の再興も、大仏殿の再建も、その時代、その時点での社会全体への問題提起であり、流行の句にはその時代その時代の問題提起の意味もある。問題が解決してしまえばもはや時代遅れかもしれないが、その魂は不易だ。
『野ざらし紀行』の、
猿を聞人捨子に秋の風いかに 芭蕉
も捨て子という当時の深刻な社会問題に、何らかの解決を訴える句だったと思う。大分遅くはなったが百年近く後の明和四年(一七六七年)にようやく「間引き禁止令」が出され、日本に孤児院が誕生するには明治になるのを待たねばならなかった。
東大寺大仏殿の完成はそこまで遅くはなかったが、宝永五年(一七〇八年)のことだった。
俳諧風流の心は和歌の心と同じ、力を入れずして天地を動かす(非暴力で社会を変革する)ことだった。
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