今日は一日小雨だった。
あと、ナイキのあのCMだが、コマーシャルなんだから作り物にきまってるだろっ。そこは突っ込みどころではない。作り物としての出来がどうかが問題なだけだ。
もちろん文学の議論も同じで、みんな作り物に決まってるんだよ。ただ作り物として良く出来ているかどうかが問題なだけだ。
それでは「俳諧問答」の続き。
「一、第三年忌、在所にていとなむ。我友共とつぶやく。ことし師の三年忌の追善、世間の俳諧大方見えたり。塚に苔むし、松ハ長し、そとばの文字がきえたる、などいふ事にて果べし。
追善の発句、仕様あるべし。専追善をやめて、懐旧の句ノ上にて仕て取るべし。三年つづきて同じ追善にてもあるまじ。是下手の心也。師の心に叶ひよろこび給ふまじ。かならずあやまるまじといひて、
月雪に淋しがられし紙子哉
ト云句して、予が集三年忌の俳諧の巻頭にハ仕たり。
加賀の北枝が『喪の名残』を見るに、木曽塚へ集る句共出たり。果して、松が長し・塚が苔むし・そとばの文字が見えぬ、など云句にて終れり。我党ハひそかにいひあてたりとて笑ひたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.171)
北枝編『喪の名残』(元禄十年刊)は「私の旅日記~お気に入り写真館~」というサイト(写楽の志賀大七のアバターのあるページは、芭蕉関係で検索していると必ず目にする)に抜粋があるが、少なくともそこには「塚に苔むし、松ハ長し、そとばの文字がきえたる」の文字はなかった。
赤はるやむなしき苔を初時雨 文鳥
朝霜や茶湯をこほす苔の上 秋之坊
の句はあるが、「塚」とは言っていない。
芭蕉の追悼だと、時雨と木枯らしは定番だが、こういう言葉がないと誰の追悼なのかがわかりにくくなる。
月雪に淋しがられし紙子哉 許六
の句は『韻塞』の「坤(許六選)」に「亡師三回忌 報恩」と前書きした歌仙の発句で、脇は、
月雪に淋しがられし紙子哉
小春の壁の草青みたり 李由
「苔むし」はアウトだが、「草青みたり」はセーフなのだろう。
「一、予当流入門の比、五月雨の句すべしとて、
湖の水も増るや五月雨
と云句したり。つくづくとおもふニ、此句あまりすぐにして味すくなしとて、案じかえてよからぬ句に仕たり。
其後あら野出たり。先生の句に、
湖の水まさりけり五月雨
と云句見侍りて、予が心、夜の明たる心地して、初て俳諧の心ンを得たり。是先生の恩なりとおぼえて、今に此事わすれず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.172~173)
許六はウィキペディアに、
「元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」
とあり、芭蕉に初めて対面したのは元禄五年だった。
『阿羅野』が出たのが元禄二年三月、芭蕉が『奥の細道』に旅立つ頃だったから、貞享五年夏に既に尚白との交流があったということか。
だとすると、尚白経由で去来に漏れた可能性も無きにしも非ずで、「是先生の恩なり」が本心なのか鎌掛けた皮肉なのかはよくわからない。
まあ、許六が「水も増るや」と疑っているのに対し、去来の「水まさりけり」の方が力強く丈高いので、その差は重要だが。この時芭蕉の直接会うことができていたら、その辺は直してくれたかもしれない。
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