2020年12月29日火曜日

  今日は霜月の十五夜で空には鱗雲が出ていて、赤っぽい月暈が掛かっていた。
 『俳諧問答』の方は、あとは「同門評判」を残すのみなので、年を越すことにはなるけど読んでいこうと思う。

同門評判

 岩波文庫の『俳諧問答』には「同門評判」が専宗寺本と天明板本の二つがあって上下に分けてあって、こういう組み方をしているとカントのアンチノミーを思い出す。とりあえずここでは専宗寺本の方を読んでいくことにする。

 「一、予同門人の中に、対面する人もあり、せざるもあり。一句俳諧の上にて、其人の作意ヲ論じて、奥ニ記ス。猶隠蜜の沙汰也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.188)

 蕉門の人たちもたくさんいてあちこちに散らばっているから、許六さんも会ったことのある人もいればない人もいる。会ったことのない人でも作品からその作意を論じている。
 「隠蜜(密)の沙汰」といっても忍者ではなく、内緒話のこと。本来同門のことなど公にすべきことではないということで、去来に内緒話として送ったものだった。まあ、元禄コソコソ噂話というところか。公刊されたのは天明五年(一七八五年)のことだった。

 「一、第一、先生の風雅を論ぜば、其器すぐれてよし。花実をいはば、花ハ三つにして、実ハ七つ也。
 天性正しく生れつき給ふに寄て、難じていはば、とりはやし少欠たり。故ニ不易の句ハ多けれ共、流行の句ハ少し。
 たとへバ衣冠装束のただ敷人、遊女町にたてるがごとし。殿上のまじハりにおいてハ、一の人とも称すべし。遊女町のとりはやし、少欠たり。
 師説の月雪を経給ふゆえ、天晴中華門人の第一とハ称す。
 水海の水まさりけり五月雨
 凩の地にも落さぬ時雨哉
 ほととぎす鳴や雲雀の十文字
などいへる一代の秀逸、いくらもあり。師の句たりといふ共上に立がたし。一人もうらやむものハなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.188~190)

 まあ、要するに真面目で堅物という印象が強いのだろう。芭蕉からはアドリブが利かないことでだいぶ三十棒もらったようだ。
 句の作り方も「興を催し景をさぐる」というのが基本にあったようで、題を決めたらその本意本情にあった景を探すというのが去来さんの必勝パターンで、許六がここに挙げた三句も、「五月雨」という題に「湖の水まさりけり」という景、「時雨」という題に「凩の地にも落とさぬ」という景、「ほととぎす」という題に「雲雀の十文字」という景を添えている。

 岩鼻やここにもひとり月の客    去来

の句も「月」という題から、岩鼻に一人誰かが月を見ているという景を想像して詠んだようだ。芭蕉は自分が岩鼻に上って月を見ている句にしなさいと言ったという話が『去来抄』に記されている。そこは嘘でもいいというのが芭蕉さんの考え方だ。

 何事ぞ花みる人の長刀       去来

 これも花見というテーマからのひねり出した句であろう。当時の「花見あるある」としては見事にはまったし、反権力の庶民感情もあいまって名句となっている。

 猪のねに行かたや明の月      去来

 この句も夜興引(よごひき:冬の夜の山中での猟)に有明の景を付けて、自分では新味のつもりでいたが、芭蕉さんに「ただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし」と、要するに月並みだと評されてしまった。
 また、許六が「とりはやし少欠たり」と言うように、景を探る所で終わって、それを面白く盛り上げる言葉に欠けている。いわば落ちがない。

 湖の水まさりけり五月雨      去来

にしても、許六からすれば五月雨で水かさが増しているだけでは物足りず、そこで何か面白いネタはないかというところだったのだろう。

 「一、丈草 器よし。花実共ニ大方相応せり。いとまある身なれバ、発句も多し。少利の過たる方也。
 春たけハ持のこさぬや面白ミ
といへる句などむづかし。
 釈氏の風雅たるに寄て、一筋に身をなげうちたる処見えず。たとへバ乗興ニして来、興尽して帰るといへるがごとし。
 此僧の句、慥ニ善悪共ニ一筋見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.190~191)

 「器よし」は才能があるということか。去来の「器すぐれてよし」に比べるとやや落ちるというところだろう。
 去来は花が少なかったのに対し、丈草は花も実もそこそこある。
 「いとまある」というのは遁世してためで、じっくり句を作る暇があるため発句も多い。今の俳句は即興で一度に十句連作とか普通だが、昔は一句一句時間をかけて作っていた。「少利」は「少(すこし)理」であろう。
 たとえば『嵯峨日記』の、

   途中吟
 杜宇啼や榎も梅櫻         丈草

の句はホトトギスに榎を取り合わせているが、「榎も梅桜」という囃しはホトトギスの声が風情があるから、榎も梅桜のように華やぐというもので、こういうのは確かに理屈だ。ただ、この時代に「理」があるのは決して句の疵ではなく、句の面白みの一つとされていた。

 水底を見て来た貌の小鴨哉     丈草

は『猿蓑』の句だが、鴨は水中に首を突っ込んで餌をとるため、水底を見てきたか、となる。

 我事と泥鰌のにげし根芹哉     丈草

も同じく『猿蓑』の句で、芹と採っているとドジョウが自分を獲りに来たと思って逃げ出すというもの。芹は根が旨いということで、葉だけ摘むのではなく根ごと引っこ抜くから、ドジョウがびっくりする。それを「我事とにげし」というところに面白さがある。
 ただ、こういう句ばかりではなく、

 うづくまる薬缶の下のさむさ哉   丈草

の句は芭蕉が病床にあって詠んだ句で、芭蕉も「丈草出来きたり」と言ったという。
 ひょっとしたら丈草の作意は火鉢に載せた薬を煎じるための薬缶の湯気が上へ登ってゆくため、その脇でうずくまっている自分にとっては寒いという「理」だったのかもしれない。ただ「さむさ」に病状を心配そうに見守る不安な情がうまく乗っかったため、芭蕉の感銘する所となった。

 あら猫のかけ出す軒や冬の月    丈草

 「あら猫」は荒々しい猫という意味だろう。腹をすかして餌を探しに出たか、冬の月の照らす中、軒端から荒々しく走り出す。理に走った感じはない。近代の、

 猫も野の獣ぞ枯野ひた走る     誓子

の句とちょっと似ている。
 丈草は仏道の傍らの余興でやっているような感じで、俳諧一筋に専念していないから、良い句もあれば悪い句もあるというのが、許六の印象だったのだろう。
 『芭蕉と近江の人々』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)によると、

 「丈草は犬山藩士、内藤林右衛門と称し幼名は林之助、三歳にして母を失う。二十七歳のとき、蒲柳の故をもって異母弟に家督を譲って離藩。出家してかねて親交の医師中村春庵(史邦)をたよって京に出る。詩文をよくし、在藩のころ玉堂和尚について参禅。」

とのことで、詩文については『嵯峨日記』に、

   題落柿舎      丈艸
 深對峨峯伴鳥魚 就荒喜似野人居
 枝頭今欠赤虬卵 靑葉分題堪學書

 よく見れば峨峯には鳥や魚がいて
 荒れてくれば田舎物の家に似てくるのを喜ぶ
 枝の先には今は赤い龍の卵はなく
 青葉が題を分かち我慢して書を学ぶ

   尋小督墳      丈艸
 強撹怨情出深宮 一輪秋月野村風
 昔年僅得求琴韻 何処孤墳竹樹中

 強く怨情をかき乱し御所の奥の部屋を出て、
 一輪の秋の月に田舎の村の風
 昔僅かに得た琴の音を探す
 一つ残った墳墓は竹薮の中のどこに

の詩がある。

 「一、正秀 風雅前に記ス。是逸物也。故ニ雑句のミ多して、血脈の沙汰少し。事故の善悪わかれず。他句も猶しるまじ。別して當歳旦三ッ物、吐龍などくミたる俳諧、三歳の童子も笑草とすることうるさし。其上歳旦ノ句三ッ出たり。一ッの外ハせぬ事と、師説にきき置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.191~192)

 「前に記す」とあるのは、「俳諧自賛の論」の中で、

 「世上雑俳の上を論ずるにあらず。雑俳の事ハ究たる事なけれバ、評にかかハらず。
 惣別予が論ずる所ハ、門人骨折の上の噂也。此正秀血脈を継がぬ故ニ、かやうの珍敷一言をいふと見えたり。
 かれが俳諧を見るに、専ラひさご・さるミのの場所にすハり、翁と三年の春秋をへだてて、師説をきかず、血脈を継がず、底をぬかぬ故に、炭俵・別座敷に底を入られたり。全ク動かぬしるし也。
 しかりといへ共、かれが俳諧を見るに、底ハぬかずといへ共、逸物也。又々門人の一人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107)
 「定家卿の論ニ云ク、家隆ハ歌よみ、我ハ歌作り、寂蓮ハ逸物也といへり。
 此人逸物と云もの也。師の眼前において句をいひ出す時ハ、師の眼有て撰出し、これハよし、是ハ五文字すハらず、此句ハ用にたたずなどいひて撰出して後、世間に出るゆへに、人々正秀ハよき俳諧と眼を付るといへ共、師遷化の後ハ、猿の木に離れたるごとくニして、自己の眼を以て善悪の差別を撰出す事をしらず。
 ただ我口より出るハ皆よき句と心得ていひ出すゆへに、当歳旦三ツ物の如き句出る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107~108)

と書いていることを指しているのだろう。
 『ひさご』『猿蓑』の風を出なかったことで、それ以降の世代となった許六にとっては面白くなかったのだろう。それは去来に対しても同じでこの書のきっかけもそこにあったと思われる。
 許六のいう血脈が二面性を持っていたのは前に書いたが、文字通りの意味での師匠から弟子へと継承される血脈ではなく、もう一つの方の意味は、基本的には芭蕉の「軽み」の風で確立された革新性で、それゆえ古典回帰的な趣向には厳しく、かといってただ目新しい題材を詠めばいいというものでもなく、むしろ「底をぬかぬ」という言葉に代表される手法上の革新を重視したと思われる。取り合わせと取り囃しの論が許六の一つの到達点だったのだろう。
 「逸物」の「逸」は「それる」「はぐれる」という意味があり、人と違う並外れた者を意味するが、その一方で道を外れる、放逸という意味もある。
 許六からすると、師の血脈を継がずに勝手気ままに句を作っていて、師に正しく句を選んでもらわなければどこへいくかわからない、という印象を持ってたのだろう。
 吐龍は土龍という俳諧師がいて正秀と同座していたのだが、どういうひとなのかよくわからない。一般名詞だと土龍はモグラのことだが。
 『芭蕉と近江の人々』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)には、

 「初め和歌を竹内惟庸卿に学び、貞享年間、大津の医尚白について俳諧をはじめ、元禄初年から芭蕉に直参し、同三年、翁の湖南来遊を迎えて熱心の師事する。」

とある。
 『猿蓑』の、

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀

は正秀の最大のヒット作であろう。
 浪化編『有磯海』には、

 ねこ鳥の山田にうつるあられかな  正秀

の句があるが、この場合の「ねこ鳥」は梟のことだろうか。
 正秀は後に惟然が編纂する『二葉集』(元禄十五年刊)にも参加し、

 むぎまきや脇にかゐこむうつはもの 正秀
    おもふことふたつのけたるそのあとは
       花のみやこもいなかなりけり
 初雪をどろにこねたる都かな    同

の句がある。

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