2020年12月3日木曜日

  ナイキのTwitterCMは一応見てみたが、何か日本の普通の子どもでもみんな同じこと思っているんではないかという感じのもので、全部純血の日本人を使って同じCMを作っても違和感ないと思った。
 明治以降の日本の教育が均質な労働者を作るためのもので、戦前から日本の若者は自己肯定感が希薄で、自殺率が高かった。今もそれは少しも変わっていない。「メンヘラ」だとか「死にたがり」なんて言葉がはやるのもそのためだ。
 このCMを見て、逆に本物の黒人ハーフや在日の人たちの間から、「俺たちの置かれている状況はこんな生っちょろいもんじゃない、ざけんなっ」という声はなかったのだろうか。そっちの方が気になる。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、追善・移徒(ワタマシ)・餞別など仕やう、かれこれ七ッ八ッも此類あるべし。是亡師の詞、あらましきき置侍る也。幽玄第一・たけ高き句すべしと。されバ不易と云ハ此所の事也。
 先追善の事、色々あるべし。親・兄弟・したしき者、あるひハ師友・芸の名人・僧・知識・隠士等、かぞへがたし。
 翁卒シ給ふ時、一天下しるもしらぬも追善したり。天下無双の俳諧名人の追善に、常式下手成事斗いひて、霊魂の手向と成るべしや。草葉の陰にて、にがにが敷顔をして居られ侍らん。
 かやうの所まで気を付る作者もなし。気が付ても動かず。是非もなき次第也。
 予、師遷化の時の追悼にハ、只かるみを詮にして、
 一度の医者よろこびやかへり花
とせし処に、晋子が『医者物とハむ』とハ加筆せし也。晋子ハ『宇治の橋守物とハむ』の力と見えたり。
 予が句、『医者よろこび』と云ハ、通俗の言葉也。よう成顔を見する共いへり。師の追善に、よろこびなどいへる事ハ、不審あるべき事也。述懐の歌に、『むせぶもうれしわすれがたミに』といへるを後鳥羽の院御感有しと云力あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.169~170)

 移徒(ワタマシ)は転居のこと。
 「幽玄」は今日では中世などの芸術の特有の美学のように用いられることも多いが、もともとの意味は裏に隠されているということ。
 確かに能などは動きを抑制することで、表現しようとして表現できない中に、見る人があれを表現しようとしているとあれこれ想像し、それが直接表現するよりも効果を上げる。

 塚も動け我泣声は秋の風     芭蕉

の「塚も動け」は暗に死者が蘇ってくれ、墓の中から出てきてくれということなのだが、それをあからさまに言うと、何やらゾンビが出てきそうでグロテスクになる。また「我泣声は秋の風」も秋風のように悲しく、「風の音にぞおどろかれぬる」の歌もあるように、死者が驚くような声を上げているという含みもある。つまり、

 塚から出でよ我が泣く声に驚いて

ということなのだが、それをあからさまに言ったらそれこそギャグにしかならない。
 あふれる感情を押し隠しながら、それでも隠し切れないというのがこの場合の「幽玄」になる。

 手をはなつ中(うち)におちけり朧月 去来

の離別の句は『去来抄』「先師評」で、芭蕉に「此句悪しきといふにはあらず。巧者にてただ謂まぎらされたる也。」と評されたとあるが、手を放つまでの間に朧月が落ちてしまったというところから、如何に長く別れを惜しんでいたかを言いたいのだろうが、そのように読者の句の意味を頭で考えさせてしまうところで、情がダイレクトに伝わらなくなってしまう。
 直接的に言うなら

 朧月落ちても未だ手を握り

ということなのだが、
 『炭俵』には、

    洛よりの文のはしに
 朧月一足づつもわかれかな   去来

の句があり、先の句の改案とされている。「一足づつも」の方が「未だ手を握り」よりもより遠回しで、幽玄の句に仕上がっている。
 「たけ高き」というのは文字通りだと背が高いということで、要するに立派な、見栄えがする、強い調子で表現されている、というニュアンスを持つ。
 『去来抄』「先師評」に、

 赤人の名ハつかれたりはつ霞  史邦

の句を芭蕉が「中の七字能おかれたり。ほ句長高く意味すくなからず」と評したとある。
 中七の「名ハつかれたり」は「よくぞ名付けてもんだ」という意味で、正月の初日が霞に山辺が赤く染まるのを見て、山部赤人とはよく言ったもんだ、お目出度い名前だというわけだ。
 これが、

 赤人の名にも似たるか初霞

では何か弱々しい。「名ハつかれたり」と言い切ってこそ「たけ高き」となる。「塚も動け」の句も、力強く命ずるところで「たけ高」になる。
 芭蕉が亡くなった時も、多くの人が追善の句を詠んでいる。
 其角撰の『枯尾花』には、門人たちの追善の句が並べられている。

 忘れ得ぬ空も十夜の泪かな   去来
 啼うちの狂気をさませ濱衛   李由
 無跡や鼠も寒きともぢから   木節
 つゐに行宗祇も寸白夜の霜   乙州
 いふ事も涙に成や塚の霜    昌房
 暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   丈草
 一たびの医師ものとはん帰花  許六

 その他にもたくさんある。
 さて、この中の許六の句だが、元は、

 一度の医者よろこびやかへり花 許六

だったのを、其角が「医者ものとはん」と修正したという。まあ普通に考えて、みんな悲しんでいるときに「よろこびや」はないだろうと思う。喪失の悲しみよりも帰り花の情を優先させたという感じがする。
 許六は、

 思ひ出づる折りたく柴の夕煙
     むせぶもうれし忘れ形見に
              後鳥羽院(新古今集)

に寄ったようだ。
 この場合は哀傷歌とはいっても、死からある程度の時間が経過しているのではないかと思われる。いわば折りたく柴の煙に故人のことを懐かしむ余裕が生まれた時だから「むせぶもうれし」と言えたのではないか。
 許六の句の「ひとたび」は「いまひとたび」のことで「もう一度」という意味。「一度の医者」は生き返るかもしれないからもう一度とあらためて亡骸に接する医者のことだろう。つまり臨終からそれほど時間が経過していない。その状況で帰り花を見て「よろこびや」は無理があると思う。帰り花が咲いたのでもしかしたら生き返るかもしれないと思い、医者が今ひとたび塚を尋ねるという意味での「ものとはん」なら納得がいく。

 年経たる宇治の橋守こと問はん
     幾代になりぬ水の水上 
              藤原清輔(新古今集)

の歌とはあまり関係ないように思える。
 許六にとって医者が一人称ではないというところも問題だと思う。追悼は自分の気持ちを述べるもので、第三者の「医者」を登場させたあたりで何か違う感じがする。そのあたりから其角は首をひねって、何だこれはと思ったのではないか。

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