午前中は小雨が降った。だんだん寒くなってくる。
何となくこの二三日、車が減っているような気がする。ただ、その分コロナが強くなれば効果は相殺される。やはり年末は静かに過ごした方が良い。
それでは「俳諧問答」の続き。
「一、右両句時鳥の事。予察し見るに、『江に横たふ』の方、先へ出たるべし。
『江に横たふや時鳥』と吟じ見るに、『ほととぎす』と云下の五もじニて、つかへてはねかへりたるやうにおぼゆ。是にて案じかえられたる成べし。
時に、『ほととぎす江に横たふや』と、さだめて参るべし。是にてハ、五文字七文字の間に、声といふ事なき故に、「声横たふや」とハ直りたると見えたり。『水の上』ハ、後のいろへむすび也。
両句の甲乙、自己ニも分がたき故に、人々ニ判を乞ハれたるなるべし。句のよきハ、『江に横たふ』の方、慥にすぐれたれ共、下五文字の所にてよろしからぬ故に、『水の上』の方へ極め給ふと見えたり。
惣別にてはなしに、ほととぎすの、かきつばたのト云詞を下五もじにをく時、上五もじ・中七もじの間にて、てにはのまハらざる時ハ、当てはねかへりたる様成もの也。
『一声の江に横たふやほととぎす』と吟じ見るに、一句幽玄になびらかならず。是、『一声の江に横たふや』と云所までに、てにはまハらぬ故に、下のほととぎす、ぎよつとしたるやう也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.182~183)
前にも述べたように、「一声」の方の句は和歌の上句のようで、何か下句が欲しくなる。切れ字があるにもかかわらず、十分に切れてない。
「はねかへりたる」の「はねる」は飛ぶという意味とともに、中途で終わるという意味がある。撥音を「はねる」と言うのは、「らむ」の最後の「う」の母音が欠落して最後まで発音せずに「らん」で終わってしまうからであろう。「首をはねる」というときの「はねる」も、近代の麻雀用語の「頭はね」も、この途中で切るというところから来ている。許六の言う「つかへてはねかへりたる」も途中で途切れてしまったような中途半端な感じを言う。この感覚は正しい。
そこで「ほととぎす江に横たふや」と直すと、今度は「声」が入らなくなるため、「ほととぎす声横たふや」とすると「江」が抜けてしまうので、最後に「水の上」と色を添えることになる。
許六が沾徳に判を求めたのは、自分でもどちらが良いか甲乙つけ難かったからで、最初から「江に横たふや」の方が良いと思ってたなら判など求めなかっただろう。趣向としては「江」の方が良く、言葉の続き具合は「水の上」の方が良い。そこでジレンマに陥ってしまった。許六がこれを書いたのは、後の読者に良い解決策を求めてのことだろう。
「又、
野を横に馬引むけよほととぎす
木がくれて茶つミもきくや時鳥
と云句ハ、上五もじ・中七もじにて、おもふままにまハる故に、下の『ほととぎす』連続したる也。此論、予が発明也。よくよく御吟味給ハるべし。微細成所よくきき侍る事、御褒美にあづかりたし。
随分おぼしめしのままに、御句なさるべし。予かたのごとくきき侍るべきなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.183)
同じように下五が「ほととぎす」で終わっていても、芭蕉のこの二句はきちんと切れていて、撥ねた感じがしない。
この二句の倒置を解消すると、
野を横にほととぎす(の方)に馬引むけよ
茶摘みも木がくれて時鳥をきくや
で、文章としても趣向としても完結している。
時鳥の一声の江に横たふや
はホトトギスの声が江に横たわって、それで何なんだ、という感覚が残る。
ここで足りないのは許六の言う「取り囃し」ではなかったかと思う。
芭蕉の句は「野」と「時鳥」の取り合わせに、「馬を横に引き剝けよ」という強力な「取り囃し」がある。「茶摘み」に「時鳥」の取り合わせにも、「木がくれて聞くや」という強力な「取り囃し」がある。許六の句は「ほととぎす」と「江」だけで終わっている。その差ではないかと思う。
取り合わせだけだと、その二つの取り合わせの必然性が分からない。そこに取り囃しが必要とされる。
ロートレアモンの「解剖台のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」もミシンと蝙蝠傘の取り合わせに「解剖台の出会い」という取り囃しがあるから成り立つ。
野に時鳥、だから何なんだ?決まってるじゃないか馬を引き向けろということだ。
茶摘みに時鳥、だから何なんだ?それは時鳥の声が木隠れに茶摘みの人たちにも届いているということだ。
ならば江に時鳥、だから何なんだ?その答えをみんな知りたいんだ。
ある意味でこれは「謎かけ」に近いのかもしれない。
野と掛けて時鳥と解く、その心は?馬を引き向けます。
茶摘みと掛けて時鳥と解く、その心は?木隠れにに伝わります。
江と掛けて時鳥と解く、その心は?
ならば、もう一つの、
ほととぎす声横たふや水の上
は何で完結して聞こえるのか。時鳥の声が横たう、というのが謎かけになって、どこに横たわるのだろうかと思わせて、「水の上」で落ちになるからだ。つまり、
時鳥と掛けて声横たうと解く、その心は?水の上だったからです。
となる。
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