2020年12月13日日曜日

  「俳諧問答」の続き。「自得発明弁」の終わりまで。

 「一、古歌のことばかりて句にしたる事あり。しかれ共嘗て其うたを下心にふまえて、仕たるにハあらず。自然ニ此詞ある故に、切入たる斗也。下心ありて取合たるなどきかれむハ、迷惑成事也べし。
 予が句ニ、
 初雪や拂ひもあへずかいつぶり
 此句、『拂ひもあへず霜や置らん』の心、少もなし。只『拂ひもあへず』也。
 初雪に鳰鳥、よきとり合物也。中の七字明て置がたし。一句成就の為、仮に入たる詞つづき也。此詞ならで用るものなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.185~186)

 「拂ひもあへず霜や置らん」の古歌は、岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 夜を寒みね覚めてきけば鴛ぞ鳴く
     はらひもあへず霜やおくらむ
             よみ人知らず(後撰集)

だという。
 カイツブリは鳰(にお)とも言う。琵琶湖は鳰の海といわれていて、冬にもなると彦根の辺りも雪が降り、初雪を羽ばたいて払おうとする鳰鳥に一興を得て詠んだのだろう。
 ただ、「払いもあへず」はオシドリと霜との取り合わせて古歌に詠まれているから、当然ながらこの歌のオシドリと霜をカイツブリと雪に変えただけではないか、という声もあったようだ。いわゆる同竈の句というわけだが、許六はあくまで影響はなかったと否定している。

 「又、
 鮮烏賊や世ハ白妙に衣がへ
と云句、ゑどにてセし也。
 衣がへといへば、着たり・ぬひだりの上にて果しを、衣の上ならであるべしと案じたる也。此ごろ、京も田舎も、鮮烏賊にて世ハふきたるがごとし。只衣がへにとり合て、『世ハ白妙』ハかりに入たる詞也。此句も此詞の外になし。天のかぐ山とききなさむハ、迷惑也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.186)

 「鮮烏賊」は「なまいか」で、千葉の鮮魚街道を「なまかいどう」と読むのと同じ。世間が衣更えで白い服を着ているの生イカに喩えたもの。これはわかる。

 春過ぎて夏来にけらし白妙の
     衣干すてふ天の香具山
             持統天皇(新古今集)

とは何の関係もない。

 「何人の句やらに、
 立雲の南に白し衣がへ
と云ハ、全体『天のかぐ山』也。眼の屆ざる人、とり違へきき違へて、似する事是非なし。晋子が流ハ、いつとても下心なき事ハセず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.186)

 句は風国編『初蝉』の素覧の句。尾張蕉門で晋子(其角)流ではない。
 句の意味も南の空に夏らしい積雲が現れ、空も白く衣更えしている、という句で天の香具山の歌の趣向とは異なる。強いていえば、白い雲の峯を白妙の香具山に見立てたとも言えなくもないが。

 「高取の城の寒さやよしの山
といふも、『ふる里寒し』の下心也。ふる里よりハ、めの前の高取寒しといへる事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.187)

 これは其角の句。高取城は奈良の壺阪寺の東の方にある。この辺りも吉野の一部になるのか。元禄三年秋の「月見する座にうつくしき顔もなし 芭蕉」を発句とする芭蕉・尚白の両吟の巻の二十九句目に、

   随分ほそき小の三日月
 たかとりの城にのぼれば一里半   芭蕉

という句もある。奈良の高取藩の藩庁である高取城は日本三大山城の一つで、ウィキペディアによれば、

 「城は、高取町市街から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と歌われた。なお、土佐とは高取の旧名である。
 曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。」

 あまりに広大な城なので天守閣にたどり着く頃には日も暮れてしまうというわけだ。この城のことはそれこそ当時の噂になっていて、誰もが知っていたのだろう。
 吉野に寒さというと、

 みよし野の山の秋風さ夜ふけて
     ふるさと寒く衣うつなり
            参議雅経(新古今集)

の歌が確かにある。まあ、それを踏まえて高取城という今のもので取り囃したとも言える。
 芭蕉も『野ざらし紀行』の旅の時に吉野で詠んだ、

 砧打ちて我にきかせよ坊が妻    芭蕉

の句も同じ歌を踏まえているし、こういう下心が悪いということはないと思う。ただ、古典の出典に密着しすぎるのを「軽み」の頃から嫌う傾向にあり、許六はその世代だから気になるのだろう。

 「晋子が此ごろの秀逸ハ、
 鶯の身をさかさまに初音哉
 此句、近年のうぐひすの秀逸也。外にあるべきともおもはず。師の句、『餅に糞する』とこなし給ふ後に、終ニこれほどにあたらしミをはしらせたる句ハなし。此句より能句ハ、如何程もあるべし、此後も出ヅべし。これほど新しき句ハなし。一筋にさかれむハ、作者も本意なかるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.187)

 其角のこの句は元禄九年刊風国編『初蝉』に収録されている。許六が最近見た中で目に留まったのだろう。

 同じくが『去来抄』だと、

 「角が句ハ春煖の乱鶯也。幼鶯に身を逆にする曲なし。初の字心得がたし。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.33~34)

となり、実際にはありえないとする。
 思うに昔はウグイスとメジロが混同されていて、メジロの緑色を鶯色と言い、この色をした餅を鶯餅なんて言ってたりしたから、メジロが頻繁に身をさかさまにするのを見て、許六さんも「あるある」と思ったのかもしれない。

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