2020年12月25日金曜日

  首都圏を中心にコロナの新規感染者も増えているし、死者も先月二千人を越えたと思ったらあっという間に三千人を越えてしまった。この調子だとオリンピックの頃には一万人に達するかも。
 まあ、別に政治家に言われるまでもなく正月は家に籠って最高の寝正月にしよう。
 それでは「星崎の」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   岡のこなたの野辺青き風
 一里の雲母ながるる川上に    重辰

 雲母は「きらら」と読む。珪酸塩鉱物のグループ名で花崗岩(御影石)にも石英・長石とともに黒雲母が含まれている。雲母は比重が軽いので川だと水流によって巻き上げられて流れてゆく。
 流れてきた雲母は川底に沈むとキラキラ光り、砂金と見まごうこともある。
 八句目。

   一里の雲母ながるる川上に
 祠さだめて門ぞはびこる     菐言

 雲母は唐紙にもちいられるので、この門は紙漉きの集団かもしれない。
 九句目。

   祠さだめて門ぞはびこる
 市に出てしばし心を師走かな   知足

 前句の門を仏門としたか。神社の隣に本地としてお寺ができるのは別に珍しくもない。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によると、貞享三年の、

 市に入てしばし心を師走哉    素堂

の句を踏まえているというが、ほとんどまんまではないか。
 なお、元禄二年冬に芭蕉は、

 何に此師走の市にゆくからす   芭蕉

の句を詠んでいる。からすは黒い衣を着た僧侶を表すもので、本来市場に無縁な人の市に行って心を師走にするという趣向は、ここに極まることになる。
 十句目。

   市に出てしばし心を師走かな
 牛にれかみて寒さわするる    安信

 「にれかむ」は齝という字を当てるもので、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘他マ四〙 (「にれがむ」とも) 牛・鹿・羊などが、かんで呑んだものを、再び口中に吐きだしてかむ。反芻(はんすう)する。にれをかむ。にげがむ。ねりかむ。〔韻字集(1104‐10)〕
  ※俳諧・千鳥掛(1712)上「市に出てしばし心を師走かな〈知足〉 牛にれかみて寒さわするる〈安信〉」
  〘他マ四〙 (「ねりがむ」とも) 牛、羊などが、かんで飲み込んだ物を再び口に出して食う。反芻(はんすう)する。にれかむ。
  ※温故知新書(1484)「ネリカム」
  ※俳諧・幽蘭集(1799)「ちからもちするたはら一俵〈芭蕉〉 放されてねりがむ牛の夕すずみ〈友五〉」

とある。反芻すること。市に行くと荷を運ぶ牛が休まずに口をもぐもぐさせ、牛も心が師走なのかな、となる。
 十一句目。

   牛にれかみて寒さわするる
 籾臼の音聞ながら我いびき    如風

 籾臼は籾摺りに用いる碾き臼で、杵で搗く臼ではない。臼が回転するときのガラガラいう音が鼾に似ているということもあるのだろう。
 牛がモーーと鳴けばそれもまた鼾に似てたりする。臼、鼾、牛の鳴き声が混ざり合って、冬の農村は賑やかなことだ。
 鼾といえば芭蕉が杜国と旅をして鼾に悩まされ、「万菊いびきの図」を描くのはこの翌年の春のこと。
 十二句目。

   籾臼の音聞ながら我いびき
 月をほしたる螺の酒       芭蕉

 螺は法螺貝。法螺貝に酒を汲んで月を飲み干すだなんて、それ自体が法螺だ。まあ、籾臼の傍で鼾かいて寝ている人の夢ということだろう。
 十三句目。

   月をほしたる螺の酒
 高紐に甲をかけて秋の風     自笑

 高紐(たかひも)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 鎧(よろい)の後胴の先端と前胴の上部をつなぐ懸け渡しの紐。後胴の肩上(わたがみ)につけた紐には懸鞐(かけこはぜ)をつけ、前胴の胸板につけた紐には責鞐(せめこはぜ)をつけるのを普通とする。近世は、相引の緒ともいう。
  ※吾妻鏡‐寿永三年(1184)正月一七日「即召二御前一覧二彼甲一、結二付一封状於高紐一」
  ※平家(13C前)一一「甲をば脱ぎたかひもに懸け、判官の前に畏る」
  ② 当世具足の引合(ひきあわせ)の緒。」

とある。脱いだ兜の緒を高紐に引っ掛けて肩の下にぶら下げるということか。鎧を着た武者が軍の時に吹く法螺貝に酒を入れて豪快に飲み干す様子とした。
 十四句目。

   高紐に甲をかけて秋の風
 渡り初する宇治の橋守      如風

 宇治の橋守は宇治橋の番人で、宇治橋は大化二年(六四六年)に初めて架けられたという伝承がある。初代の橋守はさぞかし甲冑姿でさっそうと渡ったのだろうなとは思いながらも、そこは俳諧で、秋の初めで暑かったから兜を脱いで肩にかけ、秋風に涼みながら渡った、とこれはあくまでも想像。
 十五句目。

   渡り初する宇治の橋守
 庵造る西行谷のあはれとへ    知足

 西行谷は伊勢にあり、芭蕉も『野ざらし紀行』の旅で、

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ   芭蕉

の句を詠んでいる。
 ここでは宇治の橋守を伊勢の宇治橋のこととして西行谷を付ける。
 宇治橋は伊勢神宮参道の五十鈴川に架かる橋で五十鈴川は伊勢神宮のすぐ南で東から来る島路川が合流するが、この島路川を遡っていった今の伊勢市宇治館町になる。この伊勢市もかつては宇治山田市という名前だった。
 十六句目。

   庵造る西行谷のあはれとへ
 啄木鳥たたく杉の古枝      安信

 伊勢神宮だから千歳の杉もある。今は神宮杉と呼ばれている。西行谷の庵では啄木鳥の杉を叩く音も聞こえてくる。
 このあと『奥の細道』の旅の雲岩寺で詠む、

 木啄も庵は破らず夏木立     芭蕉

にも影響を与えたかもしれない。
 十七句目。

   啄木鳥たたく杉の古枝
 咲花に昼食の時を忘れけり    重辰

 当時は一日二食の所が多かった。『伊達衣』には、
 
  二時の食喰間も惜き花見哉   杜覚

という句がある。
 一方で『奥の細道』の旅で月山に登った時は弥陀か原高原で「中食」を食べていて、湯殿山へ行った帰りも月山で「昼食」を食べている。
 おそらく道中が長いときには腹が減るので三食食べたのだろう。ここでも山の奥深く分け入り、思いもかけず山桜の見事なのに出会い、昼食を忘れるということだろう。
 十八句目。

   咲花に昼食の時を忘れけり
 山も霞むとまではつづけし    知足

 花の雲という言葉もあるが、山桜は霞や雲に喩えられる。ただ、かなり使い古された比喩なため、咲く花に山も霞むだけではいかにも誰でも思いつく句にしかならない。許六のいう「取り囃し」が欲しいところだが、案じているうちに昼食を食うのを忘れてしまった。

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