アメリカの大統領選挙の開票日は病院に行った日だった。あれは忘れもしない。午後四時ごろまでトランプ再選は決まったようなものだと思っていたら、いつまでたっても開票速報の数字が動かなくなり、夜になって動き出したと思ったらことごとく逆転していた。あの違和感は忘れない。
残念ながら日本では情報が少ないうえ、マスコミの情報は恐ろしく偏っている。いまだに何が起きたのかよくわからない。だから今日の騒ぎについても正直判断できるほどの知識もない。
とりあえず不正がなかったならそのまま負け、不正があったなら、それは国家ぐるみの巨大な陰謀だからどっちみちひっくりかえせない。日本には「勝負に勝って試合に負ける」という言葉がある。もう一つ「鼬の最後っ屁」という言葉も。
コロナは去年の十一月十一日に、
「コロナが季節性ウィルスだとしたら、これから来る第三波は今までとは違う、低温乾燥低紫外線でコロナにとってはホームゲーム、日本人が初めて経験する本気のコロナになる可能性がある。今まで通りの緩んだ自粛では通用しないと思った方がいい。」
と書いた。できればこの予想は外れてほしかった。
まあ、仕事もやめてしまったことだし、心臓も休む頃なの冬籠り。
それでは『俳諧問答』の続き。
「一、荷兮 分別しれず。愚にかへりたりといふべきか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.212)
まあ身も蓋もない評価だ。
蕉風確立期の風にこだわり、その後の流行に完全に取り残された荷兮は、ウィキペディアには、
「当初は芭蕉と親しかったが、俳風の違いから徐々に反感を抱き、元禄6年(1693年)『曠野後集』、翌年『ひるねの種』を出版して蕉風を批判した。その後も芭蕉批判は止まず、芭蕉没後の元禄10年(1697年)『橋守』で芭蕉の句を批判している。だが、荷兮自身の句作も低調で、元禄12年(1699年)『青葛葉』を刊行して以降は、連歌師に転向した。」
とある。芭蕉の俳風の変化に裏切られたという思いが強かったのだろう。まあ、今の芭蕉研究者の間でも「軽み」以降の評価が低いことを考えれば、いつの時代にもこういう人はいるのだろう。
学者、文化人などで流行に疎いことを逆にステータスとする人は、要するに自分は既に不易を極めたという自惚れの強い人ではないかと思う。普遍的真理を身につけているから時代の変化に無関心でもいいという自負は、特に社会主義者にはありがちだ。
「一、鼠弾 あら野にハ多ク出られて、後沙汰すくなし。此僧血脈・花実ハしらね共、おりふしの発句に、
行灯に食くふ比や雉子の声
と云旅行の句あり。花実なき人にもあらず。しかれ共風雅ハ三ツ、世用ハ七つありて、三つの風雅をとり失はぬまでを本意とする人也。
たとへバ親よりゆづりたる居やしきばかり有て、たくハへたる宝なけれバ、宿賃をむさぼり、己ハ裏屋に引込、世を渡る人に似たり。
ミの笠かりて薄習ひに行給ふ程におもひ給て、三ツの風雅を以て、七ツの世用をつかふ事うたがひなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.212~213)
「花実なき人にもあらず」は越人の「花実共見えたり」よりは下、桃隣の「花実あるとハ見えたり」よりは上というところか。
行灯に食くふ比や雉子の声 鼠弾
「食」は「めし」と読む。どの集の句かはわからない。「白川の里から」というサイトによると、雉は「朝は夜明けからせいぜい8時頃までと夕方に良く活動する。」とある。夕食の頃に雉の声が聞こえるのはそのせいであろう。
古典の風雅が三割ほどあるのは、蕉風確立期の芭蕉や『冬の日』に参加した尾張の門人の影響があるからだろう。ただ、荷兮のようにかたくなにそれを守るのではなく、越人のように取り残されているのでもなく、それなりに流行についていこうとしているようだ。
鼠弾は『阿羅野』に多く入集しているが、その後も地味に活動を続けている。
元禄八年刊支考編『笈日記』には、
梅が香を澤山に吹みなみかな 鼠弾
火はもえて内に人なし桃の花 同
つんふりと一日曇るやなぎかな 同
「火はもえて」の句は李由・許六撰『韻塞』にも掲載されている。
元禄十一年刊浪化編『続有磯海』にも、
宇治へ来てのぼる蛍のはなか哉 鼠弾
宝永元年刊去来・卯七編『渡鳥集』にも、
松ばらの水に顔出す野馬哉 鼠弾
の句がある。
「一、左次 師に対面せぬ門人也。此僧器清ク眼つよし。志も厚き故、翁の句共一々明し、濟がたき心かくれたる句にハ、情を一月も費す。しかれ共惜むべきハ、師説にあハざるゆへに、車を半分八分ニ押上るといへ共、血脈を正しくせぬ故に、横になぎれてもとの所へ戻る。是師ニ随ハざるの費也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.213~214)
左次は尾張の僧。李由・許六撰『韻塞』に、
さむき夜は裾に鞍置旅ねかな 左次
涅槃像後は釋迦の立仏 同
の句がある。
他には元禄八年刊支考編『笈日記』に、
鶯や啼ずにあそぶ隙もなし 左次
むら雨や苞に花もつ茄子苗 同
月涼し影すいすいとはし柱 同
秋まちてはづむ桔梗のつぼみ哉 同
草むらの花は黄に咲小春哉 同
元禄十一年刊沾圃編『続猿蓑』に、
秋たつや中に吹るゝ雲の峯 左次
の句がある。
「器清ク眼つよし」は乙州、北枝の「器も大方也」よりは明らかに上だろう。
才能があるが師の教えを受けられなかったために開花できずにいる、というところは芭蕉に対面するまでの許六自身に重ねているのかもしれない。
「一、露川 師の国よ出たる人にて、風雅の手筋もよし。しかれ共、なし置たる功徳少し。花実の姿たしかならず。たとへば広野を夜る行がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.214~215)
露川はコトバンクの「美術人名辞典の解説」に、
「江戸前・中期の俳人。伊賀生。通称藤屋市郎右衛門、別号に月空居士・霧山軒・鱠山窟。はじめ北村季吟・吉田横船に、のち松尾芭蕉に学ぶ。46才で落飾、月空庵を結んだ記念に『庵の記』を編む。諸国を遊歴し門人も多い。各務支考との間に確執があった。寛保3年(1743)歿、83才。」
とある。
「花実の姿たしかならず」は鼠弾の「花実なき人にもあらず」や桃隣の「花実いまだしかとセず。」に近いか。
風雅の手筋は良いが「広野を夜る行がごとし」というのは左次同様、師の教えを十分に受けられなかったからか。
露川は芭蕉が元禄四年の十月、近江の木曽塚無名庵を出て江戸に向かう途中、熱田で対面している。支考の『笈日記』にそのことが記されている。
元禄三年の冬神な月廿日ばかりならん、あつた
梅人亭に宿して、塵裏の閑を思ひよせられけむ。
九衢齋といへる名を残して、
水仙や白き障子のとも移リ 芭蕉
おなじ冬の行脚なるべし。はじめて此叟に逢へ
るとて
奥底もなくて冬木の小梢かな 露川
小春に首の動くみのむし 芭蕉
とあるが、元禄四年の間違い。
元禄七年五月二十五日に、露川は尾張の木曽川に近い佐屋の隠士山田庄右衛門亭の興行に参加している。
戌の五月、隠士山田氏の亭にとどめられて
水鶏啼と人のいへばや佐屋泊 芭蕉
の発句に、
水鶏啼と人のいへばや佐屋泊
苗の雫を舟になげ込 露川
の脇を付けている。十八句目までの一の懐紙は素覧を交えた三吟で、後半は支考・左次・巴丈・露川・素覧の五吟になっている。芭蕉退席の後、五人で続きを巻いたか。
元禄七年八月十四日に芭蕉は伊賀から「露川宛書簡」を書いて送っている。そこには、
「先いつぞや佐夜の泊り、殊之外之草臥故、染々共不得御意、御思召残念之至りに令存候。」
と途中で退席したことを詫びている。そして、
「正月は必貴様御在所へ御出可被レ成候。其節緩々可得御意候。」
とも書いているが、結局実現しなかった。露川としても無念のことだっただろう。
露川は手紙で芭蕉の所に発句を送ったようだ。
「尚々先日御状、御発句共逐一覧候。重而ながら便りに委可申進之候。」
とあるが、この発句の評の手紙は残っていない。『続猿蓑』入集の、
粟ぬかや庭に片よる今朝の秋 露川
柿包む日和もなしやむら時雨 同
がそれだったのかもしれない。
『笈日記』にはそれ以外に、
花にねていかなる㕝を鳥の夢 露川
郭公啼やしづかに苣の塔 同
どか雨に算をみだすや山すすき 同
銭買がさしきらしたる雪の道 同
の句がある。
「㕝」は「こと」、「苣」は「ちさ」と読む。
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