夫馬賢治さんの『ESG思考』を読み終えた。最後の方にコロナのことに触れていたが、ある意味でコロナはオールド資本主義発見器になったかな。このコロナ禍を変革のチャンスとするのがニュー資本主義、すぐに元通りに戻そうとするのがオールド資本主義。せっかくテレワークのチャンスなのに、ちょっと感染が収まってくるとすぐ通勤させて、社員の命より金が大事という経営ではそのうちクラスター出して、社会的信用を失うのではないかと思う。
ただ、ニュー資本主義‥‥もう少しいいネーミングなかったかな。何かこの言葉だけ聞くとひどく胡散臭く聞こえる。もっと本質がわかるようないいネーミングはないものか。
さて冬籠りの続き。
元禄九年刊風国撰の『初蝉』より。
放すかととはるる家や冬籠リ 去来
この場合の「放す」の意味はよく分からない。家を売り払うのか、家督を譲るということなのか。まあ、結論を保留して狸寝入りを決め込むということなのだろう。
次は元禄九年刊史邦撰の『芭蕉庵小文庫』より。
鶏の片脚づつやふゆごもり 丈草
金屏の松もふるさよ冬籠り 芭蕉
芭蕉の句の方は先に触れたので丈草の句だが、これは鶏の片脚立ちのことだろう。平塚市博物館のホームページには、
「鳥はしばしば片足で立っていること があります。地面にいる鳥はもちろんのこと、木の枝で休んでいる鳥もよく片足立ちになります。その時は、片方の足はおなかの羽毛の中に入れていることが多いので、片足立ちは体温が足から逃げるのを少なくするような保温の役目があると思われます。」
とある。
丈草の家は質素で寒そうだから、鶏みたいに足を温めながら過ごしているのだろう。
次は元禄十年刊風国撰の『菊の香』から。
冬ごもり目の草臥んあかりまど 朱拙
墨染に眉の毛ながし冬籠り 去来
朱拙はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、
「1653-1733 江戸時代前期-中期の俳人。
承応(じょうおう)2年生まれ。豊後(ぶんご)(大分県)の人。医を業とした。中村西国に談林風をまなび,元禄(げんろく)8年来遊した広瀬惟然の影響で蕉風に転じた。九州蕉門の先駆者。編著に「梅桜」「けふの昔」など。享保(きょうほう)18年6月4日死去。81歳。通称は半山。別号に守拙,四方郎,四野人。」
とある。許六の『俳諧問答』にも、
「又豊後の一集あり。此ハ惟然が手筋たり。然ども此集、坊が教示より先草稿し、後坊に聞て加入すと聞けり。
そのほか坊が徒の集なし。
或曰、豊後に集已板に出。世にあらハす事ハ惟然教示ノ後ノ集也。その前より有集ハ、終に板に不出。」
とある。これが朱拙撰の『梅桜』(元禄十年刊)だと岩波文庫の横澤三郎注にある。
寒くて閉め切った室内では明かり窓の光だけなので暗く、書物など読んだら目が疲れる。
去来の句は冬籠りの興に老僧の景を付ける去来の得意なパターンで、「眉の毛ながし」は取り囃しになる。達磨大師の水墨画が思い浮かぶ。
次は元禄十年刊桃隣撰『陸奥衛』から。
手習の外なし老の冬籠り 少噲
少噲についてはよくわからない。『陸奥衛』には何句か見られる。冬籠りで閑だから何か手習いでもするしかない。コロナのステイホームでもありそうなことだ。手習いの元の意味は習字だが、江戸時代には他の習いごとにも拡大されていたであろう。
次は元禄十年刊李由・許六撰『韻塞』の句。
大儀して鍋蓋ひとつ冬ごもり 李由
人を吐く息を習はむ冬籠 千那
冬籠鼓の筒のほこりかな 木導
土鑵子や焼火になるるふゆ籠 米巒
「大儀して」の句は許六の『俳諧問答』にも登場する。
「又李由ある時、『鍋ぶた一ッ冬籠』と云句に、五字を頼まれたり。是容易に出る五字ニあらず。これ魂魄を入る五文字なれバ、案じ煩て、
大儀して鍋ぶた一ッ冬ごもり
と云事をすへたり。」
まあ、面倒くさい時には手っ取り早く鍋で済ませるのが一番で、鍋と蓋のワンセットがあれば冬を乗り切れる。
「人を吐く」の句は「吐く息を人を(に)習はむ」の倒置であろう。部屋の火鉢の傍は暖かいが、余所から人が来て吐く息が白いのを見ると寒いんだなと分かる。コロナのステイホームの場合は吐く息で飛沫感染の恐れがあるので、ちゃんとマスクをしよう。
鼓の句は、鼓が合いの手を入れる楽器であまり一人では演奏しないので、冬籠りの時は埃をかぶっているということだと思う。木導は彦根藩士。
「土鑵子や」の鑵子(かんす)は茶釜のことで、土鑵子は土鍋のような陶器でできた茶釜のことであろう。「焼火(やいひ)」はお灸のこと。土鑵子で薬を煎じ、お灸を据えるのは、病気療養の冬籠りだろう。米巒についてもよくわからない。
次は元禄十二年刊凉菟撰の『皮籠摺』。
皆人もかうした事か冬ごもり 凉菟
押立た箕は屏風也ふゆごもり 箕足
湯をすする口のとがりや冬籠 狸々
かけものの壁に跡あり冬ごもり 凉菟
「皆人も」の句。冬籠りをしていると他の人の情報がなかなか入らないから、みんなも籠っているのか気になる。「か」という切れ字は「かな」と同じで治定の意味なので、みんなも籠っているのだろうか、籠っているのだろうな。というニュアンスになる。コロナのステイホームでもこういう孤独感はあるだろう。ただ、テレビが映し出す世界を真に受けないこと。情報操作されてしまうので、ネットや視聴者参加型のラジオ番組でいろんな人の声を聞こう。
「押立た」の句。箕(み)は穀物を篩うための道具で、竹で編んだ大きな塵取りの柄のないような形をしている。大きなものなので、これを立てておけば屏風代わりに風を遮ってくれる。箕足という人もよくわからないが、箕を背負って歩いてるのを後ろから見ると箕の下から足がでているようにみえる、そういう俳号か。
「湯をすする」の句、確かにすする時には口を前に尖らす。狸々もよくわからない。「りり」と読むのか「しょうじょう」と読むのか。「たぬたぬ」でないことは確かだろう。
「かけものの」の句は『嵯峨日記』の、
五月雨や色帋へぎたる壁の跡 芭蕉
と同竈(同巣)ではないかと思う。冬籠りで客を迎えるでもないから、大事な掛け軸ははずしている。
次は元禄十三年刊乙孝撰の『一幅半』より。
冬籠ル顔や詩人のかぶり物 凉菟
梟の咳せくやうに冬ごもり 一旨
辛キ物くふた顔なり冬ごもり 臼杵
やねうらの傘見るや冬籠 如豹
隣さへいつ見たままの冬籠 桐羽
凉菟の句の「詩人のかぶり物」は昔の中国の漢詩人の帽子なのだろうけど、何か黒いものを被っている。ネットで見たらコスプレ衣裳として販売されていた。平式幞头という頭巾だろうか。ここでは単に煤で顔が黒くなったということなのだろう。
「梟の」の句。フクロウの声というと「ほうほう」だが、日本のフクロウは短く、「ほっ、ほ」と鳴くようだ。youtubeで聞ける。それが咳のように聞こえたのだろう。
「辛キ物」の句は、寒いときの顔は大体目を細めて顔全体をしかめる、その顔が辛いものを食べたときの顔と似ているというのだろう。
「やねうらの」の句は、寒いと部屋で寝転がっていることが多いから、屋根裏の柱が嫌でも目に入る。それがから傘のようだというのだろう。高台寺の茶室の傘亭の画像を見るとなるほどと思う。元禄の頃の草庵もこういう作りだったのか。
「隣さへ」の句は、隣の人にもこの頃会ってないな、という句。
次は元禄十四年刊、万子・支考撰の『そこの花』の二句。
米ひとつ蟻の力や冬籠 為貼
丸瓢もろふて行む冬ごもり 山之
米俵の重さは60キロあったという。それを担ぐ姿が蟻の餌を運ぶ姿に似ているということか。
丸瓢(まるひさご)はよくわからないが、瓢箪にもいろいろな形のものがあり、丸い瓢箪を器にするということか。
元禄十六年刊支考・牧童撰『草刈笛』。
摺小木の細工もはてず冬籠 芦文
爰かけばかしこもかゆし冬籠 烏水
狸にはならでけふとし冬籠 雨青
芦の葉の鷺とすくまむ冬籠 支考
暇だからすりこ木にいろいろ細工をしてみる。
寒いと乾燥肌で体中あちこちがかゆくなる。
昔はタヌキとアナグマの区別がつかず、一緒くたにされていた。ホンドタヌキは冬眠しないがアナグマは冬眠する。ここでは冬眠状態にはなれず、ついつい出歩いてしまうという意味か。
支考の句は芦の葉に住む鷺のように寒さに身をすくめるという意味だろう。寒いときは鷺も首を縮めて丸くなる。
元禄十六年刊素覧撰『幾人主水』。
弦かけぬ関屋の弓や冬籠り 桃妖
関所には弓をはじめとする武器が一通り揃えられていて何かあった時に備えているのだが、冬籠りはその弦の外している状態のようなものか、という句だろう。桃妖は加賀山中とある。芭蕉が山中三吟を巻き、曾良と別れたところだ。
宝永元年刊、去来・卯七撰『渡鳥集』
椿見る座敷の内や冬籠 勝之介
座敷から庭の椿が見える冬籠り。ちょっと裕福な感じがする。
出典はわからないが「575筆まか勢」というサイトで拾った句。
きらひなる猫も撫らん冬籠 百里
友とてや猫もかじけて冬籠り 昌房
同竈(同巣)という感じがするが、どっちが先というわけでもないのだろう。百里は江戸の嵐雪門。昌房は膳所衆で探志、臥高とともに許六の『俳諧問答』で、「風雅いまだたしかならず。たとへバ片雲の東西の風に随がごとし。」と評されている。
百里は師の嵐雪と同様猫嫌いなのだろう。猫が嫌いな人は猫を追いかけたり声を出して呼んだりしないで放っておいてくれるから、案外そういう人に猫は寄ってくるものだ。
昌房の句の「かじけて」はweblio辞書の「デジタル大辞泉」に、
「1 手足が凍えて自由に動かなくなる。かじかむ。「寒さで手が―・ける」
2 やせ細る。衰え弱る。
「衣裳(きもの)弊(や)れ垢(あか)つき、形色(かほ)―・け」〈崇峻紀〉
3 植物などがしぼむ。
「いと―・けたる下折れの、霜も落さず」〈源・藤袴〉」
とある。今の言葉の「かじかむ」はここから来ている。
以上、冬籠りの句をいろいろ見てきたが、やはり最後の〆はこれだろう。
冬籠り虫けらまでもあなかしこ 貞徳
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