『新しい世界 世界の賢人16人が語る未来』(講談社現代新書)を読み始めた。そのなかで興味を引いたのがジャレド・ダイアモンドのところだが、もっともこの人については日本の左翼とほとんど変わらないというか、もろに影響を受けているのではないかと思う。歴史観なんかもほとんど司馬史観だ。こういう人たちはたいていドイツを見習えという。
ただ、後半の方でインタビュアーの方の説に、「トランプに投票した人」と「地元にとどまった人」との相関関係や、同じようなことがブレクジットにもあったという話はなかなか面白い。
イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートの言う「エニウエア族」(移動するエリートたち)と「サムウエア族」(地元にとどまる人たち)の対立という視点は、今の世界の「分断」を説明するのにかなり有効ではないかと思う。
筆者もトランプ大統領の誕生とブレクジットを予想できたが、それは自分が六年間鹿児島にいたことを除けば、小学生時代を過ごした家に今でも住んでいることか関係しているのかもしれない。それに自慢ではないが生まれてこの方一度も海外に行ったことがない。自分自身が地元に留まった側の人間だから、多分トランプやブレクジットに投票した人の気持ちがわかるのだろう。
昨日の三猿の例も、たとえば地元にとどまる人からすると何の疑問も抱かなかった三猿の画像に、世界を飛び回る人から「これイギリスじゃ大問題になるよ、日本は遅れている」何て言われればやはりカチンと来る。
留まる人は地元のコミュニティの中で生活し、そこの価値観に従っている。それを飛び回る人たちはあからさまに上から目線で否定する。じゃあ何で世界を飛び回ろうとしないのかというと、基本的には貧しいこと、外国語ができないことなどがある。中にはなけなしの金をはたいて海外へ無銭旅行して、苦労して成り上がる者もいるかもしれない。でもそれをみんなに強いることはできない。
まだ全部読んでないが、コロナを克服するには強い国家が必要みたいなことを言う人が多いように思える。そんなことはない。何よりも日本が証明したのは、国家が無策でも国民がしっかりしていれば感染を低く抑えることができるということだ。
それでは俳諧の方だが、旧暦だと今年もまだ日数があるので、まだまだ冬の俳諧を。
今度はもっと時代を遡って、延宝五年(一六七七年)の冬、芭蕉がまだなく桃青と呼ばれていた頃の、談林流行の真っただ中の百韻興行。
発句は、
あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青
昨日は河豚汁(ふぐとじる)を食ったけど、毒にあたることもなく今日はこうしてぴんぴんして興行ができますよ、という挨拶になる。
河豚については去年の今頃、2020年1月21日から23日のこの俳話に詳しく書いている。まあ、とにかく河豚はそれほど危険なものではなく、年末の運試しに洒落で食える程度には安全だったと思われる。
この「あら何共(なんとも)なや」は謡曲『芦刈』の一節を拝借している。芦刈は離縁された妻が夫を探しに大阪へ行くと、難波の葦の、という話だ。
脇は信章、後の素堂。
あら何共なやきのふは過て河豚汁
寒さしさつて足の先迄 信章
「しさつて」の「しさる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「後ずさりする。「しざる」とも。
出典平家物語 一二・泊瀬六代
「蔵人(くらんど)うしろなる塗籠(ぬりごめ)の内へ、しざりいらんとしたまへば」
[訳] 蔵人が後ろにある塗籠(=周囲を壁で塗りこめた部屋)の中へ、後ずさりして入ろうとなさるので。」
とある。河豚汁で体も暖まって、足の先までぽかぽかする。
第三は京の信徳。
寒さしさつて足の先迄
居あひぬき霰の玉やみだすらん 信徳
大道芸の居合い抜きだろう。抜いた刀が降ってくる霰にあたって音を立てると、霰の玉が乱れ飛ぶ。
この描写は後の曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の名刀村雨の描写で「抜けば玉散る」という言葉にも通じ、近代の「抜けば玉散る氷の刃」の原型だったのかもしれない。
居あい抜きの気迫に寒さも後ずさりするかのようだ。
信徳はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、
「江戸前期の俳人。伊藤氏。本姓は山田氏か。通称助左衛門。別号梨柿園(りしえん)、竹犬子。京都の人。裕福な商家の出身で、初め貞門(ていもん)の高瀬梅盛(ばいせい)に師事したが、延宝(えんぽう)(1673~81)初年から談林(だんりん)派の高政(たかまさ)や常矩(つねのり)らに接して、談林風に傾倒。1677年(延宝5)には江戸へ下って芭蕉(ばしょう)らと交流し『江戸三吟』を刊行し、また81年(天和1)には『七百五十韻』など新風体を模索する注目すべき撰集(せんしゅう)を刊行するなど、芭蕉らと歩調をあわせて蕉風俳諧(しょうふうはいかい)胎動の契機をなした。以後も芭蕉らとの交流を続け、元禄(げんろく)期(1688~1704)には言水(ごんすい)、如泉(じょせん)、和及(わぎゅう)、我黒(がこく)らとともに京俳壇で重きをなすが、のちには蕉門との間は疎遠になった。編著『京三吟』『誹諧五(はいかいいつつ)の戯言(たわごと)』『胡蝶(こちょう)判官』『雛形(ひながた)』など。[雲英末雄]
雨の日や門提(かどさげ)て行(ゆく)かきつばた
『荻野清編『元禄名家句集』(1954・創元社)』」
とある。
四句目。
居あひぬき霰の玉やみだすらん
拙者名字は風の篠原 桃青
霰と言えば、
もののふの矢並つくろふ籠手の上に
霰たばしる那須の篠原
源実朝
の歌がある。霰の玉を飛び散らすというので、名字は篠原、人呼んで風の篠原、となる。抜刀術の名手のようだ。
ウィキペディアには篠原という名字にはいくつか系統があるという。近江国野洲郡篠原郷の篠原、源師房(村上源氏)を祖とする公家の篠原家、上野国新田郡篠原郷(現在の群馬県太田市)の起源の氏族、尾張国の篠原氏、安房国に進出した篠原氏など。
五句目。
拙者名字は風の篠原
相応の御用もあらば池のほとり 信章
『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『実盛』の「行くかと見れば篠原の池のほとりにて姿は幻となりて」の言葉を引いている。
謡曲『実盛』は加賀篠原を舞台とした斎藤別当実盛の最期をその霊を通じて語らせるもので、中でも「あな無残やな。斎藤別当にて候いけるぞや。」の台詞は後に芭蕉が『奥の細道』の旅で、
あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉
の句を詠むことになる。加賀篠原は今の加賀市の海岸に近いところで、篠原古戦場跡には首洗池がある。これが「池のほとり」になるわけだが、風の篠原、もう死んでいるのか。
六句目。
相応の御用もあらば池のほとり
海老ざこまじりに折節は鮒 信徳
魚介料理の御用聞きとする。
七句目。
海老ざこまじりに折節は鮒
醤油の後は湯水に月すみて 桃青
塩味の強い醤油味の魚介料理の後はさ湯ですっきり。
八句目。
醤油の後は湯水に月すみて
ふけてしばしば小便の露 信章
月に露は付け合いだからこの展開。まあ、下ネタですね。
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