コロナ後の世界はいろいろ言われているが、さすがに今更社会主義革命はないだろう。資本主義に代わる、資本主義より生産性の高いやり方を誰も知らないからだ。今あるのは西側のグローバル資本主義と中国型の開発独裁・一国資本主義だけだ。
戦後の資本主義は一頃「修正資本主義」とも呼ばれたが、それは資本主義がただ生産性を高めるだけでなく、それを消費できるような消費者層を作らなくてはいけないことに気付いたからだ。いまやそれが世界中に持続可能かつ多種多様な消費文化を守らなくてはいけないというところまで進んでいる。
冷戦が終結して資本主義がグローバル化した時、「市場対国家」ということが言われ出した。市場原理は国家を越えて大きく世界に広がり、国家はそれを統制することができなくなった。その一方で後から市場原理を取り入れた中国は、国家主導で市場を作ったため、グローバル市場と別の孤立した市場を中国国内に作ってしまった。
中国のBATHと呼ばれる巨大企業は国家に守られて成長したが、国家を越えてグローバル市場に参入することを望むなら中国共産党との衝突は避けられなくなる。これからどう動くかはわからない。
GAFAのことはいろいろと批判もあるが、巨大IT企業は少なからず国家を越えた地球レベルのインフラ整備にかかわっている。つまりプラットフォームを世界に広めること自体が既に世界インフラで、一国のエゴで動かすことが困難だからだ。それぞれの国で規制を強化すれば、世界インフラとしての利便性が消失する。完全に国家の中に囲い込まれれば中国のBATHと変わらなくなる。
IT企業に限らず、今日大小多くの企業がSDGsに参加しようとしている。これまでもっぱらNGOの分野だったところがやがて各企業に取って代わられていくことになるだろう。かれらもまたSDGsを通じて世界インフラの担い手になる。これも国家を越えた活動になる。
やはりマルクスの予言した「国家の死滅」が近づいているのだろう。資本主義の極度の発展が最終的にすべての人に富がいきわたり国家が死滅する世界を実現する。それに抵抗するのが一方にはあくまでも資本主義を倒そうとする左翼勢力、もう一方には資本主義を国家に服従させようとあがく一国資本主義国家。それが今なのではないかと思う。
今やデータ資本主義とも言われるくらい、お金よりもデータを集約することが市場を制する条件になってきている。去年の四月十五日に、「むしろ、彼等が地球政府になり、世界中にベーシックインカムを供給することになるのか。」と書いたが、データの提供と引き換えにプラットフォーマーがベーシックインカムを支給するという時代は、案外そう遠くないのかもしれない。
それでは『俳諧問答』の続き。
「一、如行 元来虚弱也。かれ常に師ニ随ハざるゆへに、自己の善悪を弁ずる事をしらず。勿論血脈も正しからざるゆへに、斗方もなき事をいへり。
黄檗やひだるう成て春の風
など云へる類多し。
しかれ共志ある故に、一筋に踏込むとハいへ共、終に血脈の所へ届かず。故に皆仕損のミ也。
元来不調法にして、嵐雪がごときまぎらかす所も見えず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.206~207)
如行は大垣藩士で、元禄二年九月四日、美濃大垣の左柳こと浅井源兵衛宅で行われた芭蕉と曾良が再会したときの歌仙興行「はやう咲」の巻で同座している。
ただ、参加したのはこの歌仙と「野あらしに」の巻の半歌仙、「こもり居て」の表六句のみで、「常に師ニ随ハざる」は同座した経験が少ないという意味だろう。芭蕉は、
「又云ク、愚老が俳諧ハ五哥仙ニいたらざる人、一生涯成就せず、大事也。覚悟せよといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94)
と言ったというが、許六も「全篇慥ニ成就する巻二哥仙、半分ニミてざる巻二ツ、以上四巻也」と自分で言っている。
句は風国撰『初蝉』で、
黄檗やひだるう成て春の風 如風
此句は洛よりまかりての吟也
とある。
黄檗(おうばく)はここではキハダ(植物)ではなく、京都の黄檗山万福寺のことであろう。黄檗宗はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「日本の三禅宗の一。承応3年(1654)来日した明僧(みんそう)隠元が開祖で、京都府宇治市の黄檗山万福寺を本山とし、明治9年(1876)臨済宗から独立して一宗となる。教禅一如を提唱、念仏禅に特色がある。→禅宗」
とある。
ただ、万福寺なのに空腹(ひだるし)という駄洒落ネタはまあ、『去来抄』にある、
名月に皆月代を剃そりにけり 風国
のレベルか。「廓(くるわ)の内」、つまり誰でもすぐに思いつきそうなおやじギャグレベルの句だ。
「一、荊口老人 老巧の門人也。故に旧染の穢ニ寄て薬毒ふかし。然共よき子共持て、腰を押され手を引れて、やうやうに流行をするに似たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.207)
荊口も「はやう咲」の巻に参加している。大垣藩士で、子の此筋(しきん)、千川(せんせん)、文鳥のうち此筋と文鳥も参加していた。
まあ、老人だから古いのは仕方ないが、三人の息子たちに支えられて、ということで李由・許六撰『韻塞』にも入集している。
旅行
夜の中に木の葉を聞や駕籠の屋ね 荊口
凩にうめる間寒きいり湯哉 同
物よはき草の座とりや春の雨 同
行春や麓にをとす馬糞鷹 同
「馬糞鷹」はノスリのこともチョウゲンボウのことともいう。どちらも急降下して餌をとる。
「一、此筋、千川、文鳥 三人共に器すぐれたり。中にも千川勝れり。
発句の方にハ此筋に秀逸見ゆれ共、是ハ先へ生れたる一徳か。千川がとりはやし、遺経の法をよく聞込たる故に、殊の外あたらし。
文鳥ハ三男たるに寄て、風雅も又かくのごとし。上手の兄に随ひて、行末執心次第、名人にも上手にもいたるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.207~208)
「器すぐれたり」は去来・支考の「器すぐれてよし」よりは下だろう。「野坡・利牛・孤屋 其中野坡すぐれたり」の「すぐれたり」が器のことだとしたら、野坡と並ぶということか。まあ、前に述べたが野坡、支考、千川で去来包囲網なのだろう。
「遺経」は遺教経のことか。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「大乗経典。梵本やチベット訳は現存しない。鳩摩羅什(くまらじゅう)訳。1巻。釈迦が涅槃に入る前に最後の教えを垂れたことを内容とし、戒を守って五欲をつつしみ、定(じょう)を修して悟りの智慧を得ることを説く。中国・日本で普及し、特に禅門で重視される。仏垂般涅槃略説教誡経。仏遺教経。」
とある。ここでは芭蕉の最後の頃の教えの意味で用いているのだろう。百十ページにも「今世上に遺経の俳諧の風ハ、天下ニ三四人ならでハあるまじ。」とある。許六自身は「さざゐのうまミをぬきて、遺経の俳諧を残せりときけ共、板に出ざれバしらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)と言っている。
「発句の方にハ此筋に秀逸見ゆれ共」とはあるものの、李由・許六撰『韻塞』を見ても此筋の句はそう多くない。
蔦の葉の落た処を時雨けり 此筋
俎板に寒し薺の青雫 同
川上へ流るるやうな柳哉 同
投られてもろき命や簗の鮎 同
白雨に一足はやし旅籠町 同
といったところか。
千川は、
初霜に覆ひかかるや闇の星 千川
うぐひすにうかれて脱や下ひとつ 同
菊の香やふるき難波の呑手共 同
文鳥の句は元禄八年刊の支考撰『笈日記』の大垣のところに、
名月にあからみそめよ櫨楓 文鳥
炭の火の針ほど残る寒さ哉 文鳥
の句がある。
「一、北枝 器大方也。花実もありて、実少シ。師説ニうときゆへ、ちからなし。自己の眼を以て、世上の人の流行を見習ひ、跡より随ふに似たり。
とりはやし斗眼に入、血脈の所を探あてぜるゆへによハし。嵐雪がまぎらよりハ、遥に勝れたり。
世俗の耳にハしほらしくきこえ侍れ共、根本の所より出ざる故ニ、浅間にして見ざめせり。
ながれたる雲やしぐるる長良山
雁のつら崩れかかるや瀬田の橋
一句の根なければ、とりはやしまでにて果たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.208~210)
「器大方也」は乙州の「器も大方也」と並ぶ。嵐雪以上杉風以下というところか。「花実もありて、実少シ。」は嵐雪の「花あるに似たれ共、実猶なし。」よりは上になり、杉風の「花実ハ実過たり。」の逆になる。
北枝は「残暑暫」の歌仙、「しほらしき」の世吉、「ぬれて行や」の五十句、「馬かりて」の歌仙の四巻に同座しているから、許六よりは多くの教えを受けたのではないかと思うが、不易流行説の固まる前で、まして「底を抜く」の血脈の教えは受けてなかっただろう。「自己の眼を以て、世上の人の流行を見習ひ、跡より随ふに似たり。」というが、許六の多くも自らの「発明」ではある。
句を面白く盛り上げようという気持ちは強いが、「しほり」は根っからのものではなく底が浅いということなのだろう。
引用されている句はどちらも李由・許六撰『韻塞』に収録されている。
無名庵にて当座
流れたる雲や時雨るる長等山 北枝
長等山(ながらやま)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「滋賀県大津市の三井寺の後ろの山。[歌枕]
「世の中をいとひがてらに来しかども憂き身ながらの山にぞありける」〈後撰・雑三〉」
とある。時雨に長良山を取り合わせ、「ながれたる雲」と時雨を囃す。「ながら」に「ながれ」と掛けているのだろう。義仲寺の無名庵は芭蕉の滞在した庵で、芭蕉の墓もここにある。時雨の流れる雲に師を偲んでも吟であろう。
雁の行くづれかかるや瀬田の橋 北枝
の「行」は「つら」と読むのがわかる。瀬田の橋は近江八景の「瀬田夕照」で瀟湘八景の「漁村夕照」に相当する。「平沙落雁」は「堅田落雁」で満月寺浮御堂になる。元禄四年に、
錠明て月さし入よ浮御堂 芭蕉
安々と出でていさよふ月の雲 同
の句が詠まれている。
この句も雁に瀬田の橋を取り合わせ、「くづれかかるや」と囃している。ただなぜ瀬田の橋でくずれかかるのか、よくわからない。
取り囃しはそれなりに上手いが、今一つ情が乗っかってないということなのだろう。
「一、越人 是も逸物也。器勝れて、花実共見えたり。
しかれ共、久しく師説をきかず。風雅におこたりたる中に、流行をしらず。おりふし昔をおもひ出て、東風のかるミを窺ふといへ共、間に堀切の有事をしらず。
一旦俳諧に得たる所あるゆへに、不易ハするといへ共、流行においてハあぶなあぶなさぐり足也。たとへバ川をへだてて、向の岸をのぞむに似たり。立かへりむかしわたり付たる瀬より尋上らば、此男器のすぐれたる者なれバ、師に追つき侍らん事かたかるまじ。
惣別おこたれる人、堀切の有事をしらず。一日のおこたりハ一日の流行をへだて、一月の懈怠ハ一月の堀切出来る事をしらざる也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.210~212)
「逸物」はこれまで正秀と木導に用いられている。「器勝れて」は此筋、千川、文鳥の「器すぐれたり」に並ぶ。去来・支考の「器すぐれてよし」よりはやや落ちる。「花実共見えたり」は桃隣の「花実あるとハ見えたり。」より上になる。
芭蕉の貞享の頃の門人であるだけに、蕉風確立期の風を引きずっていたのは確かだろう。「軽み」の風との間には堀切(大きな溝)がある。
不易の軸がしっかりしているので、今からでも追いつくことはできるとは言っている。つまり追いつこうとしないのは怠惰のせいというわけだ。
まあ、人間ある程度の年になると新しいものに興味を失う人が多い。多分今日俳句をやっている人、俳句を研究している人など、ほとんど流行には興味がないだろう。なぜなら俳句が流行ってないからだ。
ただ、当時の俳諧師は流行で飯を食っている今で言う業界人のようなものなので、それでいうと致命的かもしれない。
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