今日は晴れて暖かくなった。
昨日の話の続き。まあ、とにかく心がどうであれ、子宮を持つものはペニスを持つ者の脅威から守られなくてはならない。それだけ。
「それでは「冬景や」の巻の続き。
二表。
十九句目。
桃になみだが一国の酔
朝がすみ賢者を流す舟みえて 芭蕉
まあ、真面目な芭蕉さんだからここは本当に国が傾くことにする。国を顧みない皇帝に賢者が左遷されてゆく。杜甫も華州(現在の陝西省渭南市)の司功参軍に左遷された。
二十句目。
朝がすみ賢者を流す舟みえて
詞のうみと絵に讃を乞 其角
「詞のうみ」は『和漢朗詠集』の、
文峯案轡白駒景 詞海艤舟紅葉声
文峯に轡を案ず白駒の景、
詞海に舟を艤(よそ)ふ紅葉の声
に出典があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 ことばや詩歌の豊富なことを、海の広大なのにたとえていう語。
※和漢朗詠(1018頃)上「文峯に轡を案ず白駒の景、詞海に舟を艤(よそ)ふ紅葉の声〈大江以言〉」
※本朝無題詩(1162‐64頃)二・賦連句〈藤原茂明〉「文賓詩友今為レ道、詞海如何欲レ釣レ名」 〔元稹‐献滎陽公詩〕」
とある。
前句の左遷されてきた賢者に詩歌の才能があるからということで絵に讃を乞う。平易な言葉でも良さそうなところをわざわざ「詞海」という言葉を引いてくるところが其角らしい。
二十一句目。
詞のうみと絵に讃を乞
松しまは雲居の庵に酒をのみ 李下
雲居希膺(うんごきよう/うんごけよう)はウィキペディアに、
「寛永13年(1636年)に伊達忠宗の招請があった奥州へ移り、松島の瑞巌寺を再興した。」
とある。後に芭蕉が書く『奥の細道』には、
「雄嶋が磯は地つゞきて海に出たる嶋也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有あり。」
とある。曾良の『旅日記』にも、
「御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。」
と記されている。前句の「詞の海」に松島の海を重ね合わせる。
二十二句目
松しまは雲居の庵に酒をのみ
心は媚ず幾とせのたび コ齋
ウィキペディアによると雲居希膺は、
「宇山大平寺にて9歳で出家する。その後、東福寺、大徳寺と居を移す。慶長11年(1606年)、愚堂東寔や大愚宗築らとともに虎哉宗乙や物外招播などの当時の名だたる禅僧の下を遍参した。元和2年(1616年)に妙心寺蟠桃院の一宙東黙より嗣法する。その後、若狭国小浜、摂津国勝尾山に隠遁する。元和7年(1621年)に妙心寺で開堂の儀を行うが、自らの境涯に満足せず修行を続け寛永9年(1632年)51歳にして越智山で座禅をした際に大悟した。寛永13年(1636年)に伊達忠宗の招請があった奥州へ移り、松島の瑞巌寺を再興した。正保元年(1644年)に石馬寺を中興。正保2年(1645年)に妙心寺153世となり、慶安3年(1650年)には愛子の大梅寺を開いている。万治2年(1659年)に同寺順世し、葬られる。慈光不昧禅師、大悲円満国師と贈諡された。」
とまさに「心は媚ず幾とせのたび」という生き方だった。前句を「雲居は庵に酒をのみ」という意味に取り成す。
二十三句目。
心は媚ず幾とせのたび
四ッの時冬はあられのさらさらと 文鱗
「四ッの時」は四時のことだが、四時はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙
① 春・夏・秋・冬の四つの季節の総称。四運。四季。よつのとき。しいじ。
※田氏家集(892頃)下・禁中瞿麦花詩三十韻「四時翫好、蘼可レ愛」
※俳諧・常盤屋の句合(1680)二五番「臘月の青物に、四時不変の国をおもひよせたるも奇特、左右わかちなし」 〔易経‐乾卦〕
② 一月中の、晦(かい)・朔(さく)・弦(げん)・望(ぼう)の四つの時。
③ 一日中の、朝・昼・夕方・夜の四つの時。また、黄昏・後夜・早晨・晡時の四つの時。
※日蓮遺文‐撰時抄(1275)「末代の根機にあたらざるゆへなりと申して、六時礼懺四時の坐禅、生身仏のごとくなりしかば」
〘名〙 昔の時刻の名。現在の午前、または午後の一〇時。
※藤河の記(1473頃)「夜の四つ時に八坂といふ里に舟を寄せて」
といろいろな意味がある。おそらくここは①であろう。
二十四句目。
四ッの時冬はあられのさらさらと
水仙ひらけ納豆きる音 芭蕉
冬の霰さらさら降る頃はもうじき水仙も咲くし、納豆は冬の寒いときに低温で熟成させる。「納豆きる」は引き割り納豆を作る作業で、芭蕉はのちの元禄三年に、
納豆切る音しばし待て鉢叩き 芭蕉
の句を詠む。鉢叩きの音が聞こえるから納豆を切るのを待ってくれという句。
二十五句目。
水仙ひらけ納豆きる音
片里の庄屋のむすこ角入て 濁子
「角入(すみいれ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に「すみいれがみ(角入髪)」の略とあり、
「〘名〙 元祿時代(一六八八‐一七〇四)、男性の半元服(はんげんぷく)の髪型。一四歳になった少年が、前髪の額を丸型から生えぎわどおりに剃ると角(かく)型になるところからいう。すみいれ。」
とある。半元服の髪形は「角前髪(すみまえがみ)」といい、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「江戸時代、元服前の少年の髪形。前髪を立て、額の生え際の両隅をそり込んで角ばらせたもの。すみ。すんま。」
とある。元服すると月代を剃る。角入はその全段階で、今で言う「剃り込み」に近い。
前句を田舎の庄屋の庭先の情景とし、庄屋の噂を付ける。
二十六句目。
片里の庄屋のむすこ角入て
伊勢おもひ立わらぢ菅笠 コ齋
半元服でお伊勢参り。まあ、可愛い子には旅をさせよとは言うが。
二十七句目。
伊勢おもひ立わらぢ菅笠
美濃なるや蛤ぶねの朝よばひ 仙化
「よばひ」はここでは「よばふ」で何度も呼ぶこと。
蛤と言えば桑名で伊勢国だが、ここでは前句の「わらぢ菅笠」の縁で「美濃(蓑)」にする。とはいえ、美濃は海に面してない。
二十八句目。
美濃なるや蛤ぶねの朝よばひ
ながれに破る切籠折かけ 李下
「切籠折かけ」はともに盆灯籠のことで、切子灯籠はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「盆灯籠の一種で、灯袋(ひぶくろ)が立方体の各角を切り落とした形の吊(つ)り灯籠。灯袋の枠に白紙を張り、底の四辺から透(すかし)模様や六字名号(ろくじみょうごう)(南無阿弥陀仏)などを入れた幅広の幡(はた)を下げたもの。灯袋の四方の角にボタンやレンゲの造花をつけ、細長い白紙を数枚ずつ下げることもある。点灯には、中に油皿を置いて種油を注ぎ、灯心を立てた。お盆に灯籠を点ずることは『明月記(めいげつき)』(鎌倉時代初期)などにあり、『円光(えんこう)大師絵伝』には切子灯籠と同形のものがみえている。江戸時代には『和漢三才図会』(1713)に切子灯籠があり、庶民の間でも一般化していたことがわかるが、その後しだいに盆提灯に変わっていった。ただし現在でも、各地の寺院や天竜川流域などの盆踊り、念仏踊りには切子灯籠が用いられ、香川県にはこれをつくる人がいる。[小川直之]」
とあり、折掛け灯籠はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「細く削った竹2本を交差させて折り曲げ、その四端を方形の薄板の四隅に挿して、紙を張った盆灯籠。《季 秋》」
とある。木曽川と長良川の下流域は水害多発地域でもある。精霊棚は外に置くことも多かった。
二十九句目。
ながれに破る切籠折かけ
月入て電残る蒲すごく 濁子
激しい雷雨だったのだろう。夜明けには晴れてお盆の満月も沈み稲妻だけがのこり、蒲は水を被って大変なことになっている。
三十句目。
月入て電残る蒲すごく
ことしの労を荷ふやき米 芭蕉
やき米はウィキペディアに、
「焼米とは、新米を籾(もみ)のまま煎(い)ってつき、殻を取り去ったもの。米の食べ方・保存法の一つ。 そのままスナック菓子として食べても良いし、汁物に浮かべて粥にして食べるという雑多な利用法があった。米粒状・粉状と形態も様々である。」
とある。収穫して精米せずにすぐに食べられるので、稲刈りの後に食べたのであろう。前句を夕暮れの景色に転じる。
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