さて、今日は湯山三吟の名残の裏の最初の句、つまり九十三句目。
うときは何かゆかしげもある
わりなしやなこその関の前わたり 宗祇
「や」や「か」は古文の時間に疑問・反語と習うが、連歌の場合は疑問は反語に、反語は疑問に取り成すのが定石とも言える。
前句が「よそよそしくしている人に何で惹かれたりするんですか(惹かれたりしないでしょう)」という反語だったから、ここは疑問に取り成す。句の意味は、
どうしたらいいことか、なこその関の前をうろうろしている、よそよそしくしている人に何で惹かれたりするだろうか。
といったところか。
よそよそしい人になぜか惹かれてしまうというのはよくあることで、寄ってくる人はいつでもモノにできるとばかりキープするだけで、よそよそしい人にほどチャレンジしたがる。それを逆手に取ったのが、いわゆる「ツンデレ」だ。古語だと「つんつん」は「そばそばし」、「でれる」は「なつく」だから、「そばなつ」とでも言うべきか。
なこその関は一般的には福島県いわき市の南部、茨城県北茨城市との境界近くで観光地にもなっている勿来の関とされているが、これは江戸時代に一般化した説で、実際の所は諸説あってよくわからなという。
陸奥への古代の駅路は東山道だと白河を通り、東海道の方から行くと今の国道349号線、茨城街道の方から白河の先で合流し中通りを行く。浜通りのほうを北上する古代道路も存在したとされるが、そこにあったのは菊多関で「勿来の関」はその別名だとする説もあるが定かでない。後に菊多関と勿来関が混同された可能性もある。
陸奥国府のあった宮城県の多賀城の北に勿来川があり、勿来神社があったことから、惣の関が勿来の関ではないかという説も有力になってきている。
和歌や連歌では勿来の関は、「なこそ」という名前を「な・来(こ)そ」つまり「来るな」という意味と掛けて用いられることが多い。
平安時代にあって勿来の関を有名にしたのは、『千載和歌集』の、
陸奥國にまかりける時、
勿來の關にて花のちりければよめる
吹く風をなこその関と思へども
道もせに散る山ざくらかな
源義家朝臣
の歌で、吹く風を来るなと言って追い返す関なのに道が見えなくなるほどの山桜が散っているというこの歌には、戦には勝っても多くの人が散っていった悲しみが感じられる。
『山家集』にも「旅の歌とて」という前書きで6首連ねるうちの一つに、
東路やしのぶの里にやすらひて
なこその関をこえぞわづらふ
西行法師
の歌がある。
信夫の里というと「しのぶもじ摺り」で、芭蕉も信夫の里尋ねて、もじ摺り石がひっくり返ったまま放ったらかしになっているのを嘆いているが、これは中通りの福島市内だ。位置的にもここから浜通りのいわきへ行くよりは、多賀城の方に向かうほうが自然なように思える。
西行法師がみちのくを旅したのは確かだから、勿来の関の正確な位置を知っていたかもしれないが、都の大宮人の多くはただ噂に聞くだけで、もっぱら「なこそ」の掛詞の面白さが中心となっている。
この宗祇の句でも、本当のなこその関のことではなく、来るなと言われている思い人のところについつい行ってはうろうろしてしまう様を、あくまで喩えとして「なこその関」と言っているにすぎない。まあ、気持ちはわかるが、今だったらストーカーだ。
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