2016年10月22日土曜日

 前に書いた『鵲尾冠(しゃくびかん)』の、

   清少納言もよく見て
 木耳(きくらげ)の形(なり)むづかしや猫の耳   機石

の句だが、『枕草子』の「むつかしげなるもの」にも猫の耳が登場する。

 「むつかしげなる物、ぬい物のうら。ねずみのこのけもまだおひぬを、すの中よりまろばしいでたる。うらまだつけぬかはきぬのぬいめ。ねこのみゝの中。ことに清げならぬ所のくらき。ことなる事なき人の、こなどあまたもちあつかひたる。いとふかふしも心ざしなきめの、心ちあしうしてひさしうなやみたるも、をとこの心ちはむつかしかるべし。」

 何気にうざい物。刺繍の裏側。毛の生えてないネズミの子が簾の中から転がり出てくる。裏地のまだ付いてない毛皮の服の縫い目。猫の耳の中。暗くて雑然とした所。たいした身分でもないのに子どもをたくさん作って手に負えなくなっている。大して気があるわけでもない女が気分を悪くして長いこと塞ぎこんでいるのも、男の心情としてはうざいでしょうね。

 この場合は猫の耳の形状ではなく耳の中が汚れていることを指すと思われる。
 越人撰に『猫の耳』と言う俳書があり、これは享保2年刊の『鵲尾冠』よりもかなり後の享保14年のもので、前書きに、

 「集を猫耳といふ事は清女が筆にとるならしけにやよつのときの何くれより人物技芸のくだくだしきまで耳のにこけと生出たるこれや彼垂雲の翼具したる鳥の化して牡丹に眠れるかはた西域より貢せし猫の世にかたましき此道の鼠輩の人もなげにあれわたるを壇によりて威をなせるかしらず千載の子雲をまちて是がために伯楽とせむ」

とある。
 猫がいないのをいいことに鼠のような奴らが威張り散らすといけないので、千載の子雲が現れるのを待って今は逸材の発掘に専念しようというのだが、これは芭蕉を猫にたとえて各務支考をディスっているのか。要するに「うざい」ということか。

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