今日、注文していた『蕉門俳諧続集』(1927、日本俳書大系刊行会)が届いた。
ぱらぱらとめくっていたら、露川撰『庵の記』の中に、許六の「辧柄の毒々しさよ蔓玆舎華」の句があった。
千山撰の『花の雲』の雑体のところにこんな句があった。
名所もそこそこに
猫の居る木は何じややら何じややら 洛茨
雑体だから無季題で、前書きに「名所」とあるから名所に分類できるのかもしれないが、それもそこそこに猫のいる木が気になってしまい、名所の本意ともほど遠い。惟然の超軽みの風の産物か。
空裏を走のこころならんか
さあさあさあ爰(ここ)でサアサア盃を 至楽
「空裏を走」は「八角磨盤空裏を走る」という禅問答から来た言葉で、この心に通じないだろうかというわけだ。内容はただ盃をというだけの句。八角形の石臼が空の裏側を走るなんてのは今で言えばシュールというところだろう。まあ、結局「意味がない」ということを言いたかったのだろうか。この世のすべては本当は意味なんてないんだとでも言いたげだ。一応「釈教」になるのか。
ちちぶ山
ここちよい尻つき出いてちちぶ山 ララ
俳号も人を食ってるが、どうせエロ爺の句だろう。漢字で書けば「良々」のようだ。秩父山は名所だから「名所」の句。
どつかりと上から臼がこけました (少年)黄瓜
まあ臼が転げてもおかしい年頃なのか。こういう意味のない句でも禅だと言えば通っちゃうんだろうな。
撰者の井上千山(AKA千山風人)は播州の人で、惟然の門下であるとともに、鬼貫、来山など、芭蕉が制圧できなかった大阪談林系の人たちとも交流があったようだ。
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