連歌も俳諧も基本的にはこういう会話の機知を基本として、そこで面白い冗談を言って人を笑わせたり、ちょっといい話をしてみたり、時にはしんみりさせてみたりして、会話がどんどん脱線してゆくのを良しとする。
連歌には両吟や三吟、四吟のような、少数の連衆(連歌の参加者をこう呼ぶ)が順番に付けてゆく場合と、ある程度の人数の連衆が大喜利のように次の句を競って付けて、その中の一句をその場で選んで続けてゆく出勝ちという方法とがある。
「大喜利のように」と言ったが、むしろ「大喜利」自体が連歌の出勝ちが元になっているのではないかと思う。連歌・俳諧はその後の日本のお笑い芸の基礎となっている。
連歌会(れんがえ)が催されると連衆は採用される句の多さを競ったり、その中で一番良い句を選んだりして、それに賞品を出したりした。こうして楽しいひと時を過ごした後は御馳走が振舞われ、飲んだり唄ったり賑やかなものだった。
会話の楽しさという点では、後の漫才にもこれは受け継がれている。
漫才は中世に流行した千秋万歳(せんずまんざい)が元になっていると言われている。二人一組で正月などに鼓を打って舞を舞ったりしてみんなの長寿を祈願するもので、江戸時代の俳諧でもしばしば千秋万歳のことが詠まれている。
やまざとはまんざい遅し梅の花 芭蕉
これは千秋万歳の興行が都会から徐々に田舎の方に移動してゆくことを詠んでいる。当時の「あるある」だったと思われる。
なお、今の「漫才」は大正末期の吉本興業の芸人、エンタツアチャコによって確立されたという。
江戸時代の俳諧師のイメージが今の芸人に近いのは、次の句からも伺われる。
今朝国土笑はせ初ぬ俳諧師 高政
菅野谷高政は宗因の高弟で京都談林の中心人物だった。
この句からは、江戸時代の俳諧師のイメージが今日の俳人のイメージと随分と異なることが感じ取れる。
彼らは文人として知識人の一翼として世間からの尊敬を集めてはいたものの、そこには真面目で神経質な芸術家というイメージはない。
子弟の間ではぴりぴりとした関係はあっただろう。仲間同士で真剣な議論をすることもあっただろう。でも世間の前では笑いを振りまく存在だった。
それは今日の「芸人」の世界に近いといってもいいのではないかと思う。テレビでおちゃらけて笑いを振りまいてはいても、その裏では厳しい修行があり、上下関係があり、真剣な議論がある。お笑いの道も決して誰でもできるような生易しいものではない。ただ、それを表に出さないのがプロというものだ。
今日でもお笑い芸人の世界からいっぱしの文化人になった者がいる。ビートたけしなどそのいい例だ。今や世界に誇る北野監督だ。もちろん芥川賞作家のピース又吉も忘れてはいけない。
多分、たくさんの弟子達を抱えた芭蕉翁の姿は、たけし軍団に近いものがあったのだろう。今だったら芭蕉は「翁」ではなく「殿」と呼ばれていたかもしれない。
俳諧師になるものの素性は様々だが、江戸時代の俳諧文化の礎を築いた松永貞徳は藤原惺窩に儒学を学んだ儒者だった。それだけでなく古今伝授を受けた細川幽斎に和歌を学び、里村紹巴に連歌を学んだ、当時の第一級の文化人だった。「松永」の姓も戦国武将の松永弾正の甥ということで、由緒正しい血筋を表わしている。
その貞徳の句はというと、
霞さへまだらにたつやとらの年
雲は蛇呑みこむ月の蛙かな
花よりも団子やありて帰る雁
冬ごもり虫けらまでもあなかしこ
といったもので、真面目な学者が馬鹿をやると、それだけで面白い。馬鹿をやっているようでも、「雲は蛇」の句は、中国では月の模様を兎ではなく蛙に例えていることを知っていないとわからないし、そういうところでチラッと教養を覗かせたりする。
もちろん、今日のお笑い芸人も結構そうそうたる名門大学の出身者が多い。ネタもかなり高度な知識を必要とするものがあったりする。それを思うと、貞徳は今日の芸人の祖だったと言ってもいいのだろう。
才能があるからといって偉ぶってはいけない。才能がある人間がその才能でもって人を笑わせ、溢れる知性をみんなを幸せにするために使う。決して戦争のために使ったりはしない。それが日本の文化人のあるべき姿であり、その伝統は今でも生きている、と信じたい。
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