2016年10月7日金曜日

 国語というのは日本であれヨーロッパであれその他の地域であれ近代国家形成の過程で作られたもので、本来人間は自らの生活空間から言語を習得し、その言語を話すだけだった。
 それは都市のような大きな生活圏が形成されていれば、それだけ多くの人に通じる言葉を身につけていたし、そこにいろいろな国の商人が出入りして多言語空間を形成していれば、自然にいくつもの言語を習得していた。逆に小さな離島や近隣との交流の少ない小さな村で育てば、ほとんど局地的にしか通じないような言葉を喋るしかなかった。
 ただ、どんなに狭い地域の方言でも、どんなに広い地域で通じる言語でも、その複雑さには変わりがなかったという。人間の言語能力は生得的なものであり、広ければ広いなりに狭ければ狭いなりに、同じように複雑な言語体系を作り出すことができていた。ただ、言語習得の臨界期にまったく言語に接することができなかったなら、話は別だ。
 「方言」というのは標準語が確立された近代社会での標準語に対する言葉で、標準語のなかった時代には「方言」という意識もない。そして長いことそういう言語は記述されることもなかった。記述する場合にはそれ専用の言葉が存在したからだ。アジアの漢文、ヨーロッパのラテン語、イスラム圏ではコーランのアラビア語がそれだった。
 基本的にそれらはその時代のリアルタイムの言葉ではない。リアルタイムの言葉はいつでも多様すぎた。だから古典の言葉で書き表した。古典は過去の言葉だから変わることがない。
 日本の中世の雅語の文学も、基本的には古今から新古今までの八代集の言葉が用いられた。なぜ口語の文学がなかったかというと、口語で歌を詠んでも、その言葉が理解できる範囲の限られた人たちにしか通じなかったからだ。
 俳諧は雅語の文学に対して俗語の文学として誕生したものだが、基本的には共通語である雅語に、ほんの少し俗語を交える所から出発した。それが松永貞徳の貞門の俳諧だった。貞門では俗語は一句に一語のみと定められ、それ以外は雅語を用いなくてはいけなかった。雅語の用法が正しいかどうかは古典の用例にいちいち突き合わせて検証され、「証歌」を取らなくてはならなかった。いわゆる「標準語」の確立された近代の俳人からするとそれはかなり面倒くさく窮屈で、封建時代の野蛮な風習に見えたかもしれない。しかし、まだ江戸や上方の大都市圏の言語が定まらなかった時代には必要なことだった。
 江戸や上方はいろんな地方から人が集まり生活していくうえで、自然に共通の言語が形成され始めた。談林の俳諧はいち早くこうした都市の言葉を解禁したが、その言葉も多くは謡曲など芝居の言葉が多かった。
 元禄2年の奥の細道の途中で詠んだ、

 あなむざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉

の句の「あなむざんやな」は口語とはいっても謡曲『実盛』に出典のある言葉で、ある程度多くの人の共通認識のある言葉を選ばなければ伝達そのものが成り立たなかったと思われる。
 芭蕉が「軽み」を意識し、あえて出典をはずしていった時、この句は、

 むざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉

という今日『奥の細道』で知られる形となった。
 蕉門の俳諧が俗語の開放をなしえたのは、都市部を中心としたある程度の共通の言葉が形成されたことと無関係ではあるまい。芭蕉が中世に生まれていたら、宗祇法師と同様に雅語しか使わなかっただろう。都市化はただ大きなまとまった言語圏を形成するだけでなく、そこに出入りする諸国の商人たちや、参勤交代で定期的にやってくる地方の武士たちに広がり、都会の文化に親しんだ人ならでは理解のできる、全国的に通用する言葉を生じ始めていたのではないかと思う。
 ただ、惟然が芭蕉の軽みをさらに推し進め、口語化をさらに拡張しようとした時、京や近江でやっているうちは良かったが、それが播州姫路に伝播したとき、かえってわかりにくい言葉になってしまったのではなかったか。おととい紹介した『二葉集』の面六句はそういう意味で、簡単なようで難しい。ほとんど推測で読んでしまったが、これをきちんと検証するとなるとかなり大変な作業になるだろう。
 標準語以前の世界は、今日の我々には想像を絶する。だが、それを前近代的という言葉だけで片付けるのは勿体ない。それは今日の先進諸国から消えてしまった夜の闇に似ているのかもしれない。
 そんな播州姫路の句、

 広ふても広かれ世界花にやれ     良々

 案外近代的かもしれない。

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