湯山三吟の続きで、今日は2句。
まずは、
衣手うすし日ぐらしのこゑ
色かはる山の白雲打ちなびき 宗長
ヒグラシは夏から秋の初めにかけて朝や夕暮れに鳴くもので、竜騎士07の『ひぐらしのなく頃に』は新暦の6月と夏の早い時期の設定になっている。もっとも、この人の作品は『おおかみかくし』で八朔が「八月食べごろ」になっているくらいだから、季節感は割と適当だったりする。
「色かはる山」は紅葉の季節ということになると晩秋の季語になる。曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には「色かはる」はないが、「色不変松(いろかへぬまつ)」が九月のところにある。「色かはる」自体が季語というよりは、意味の上で紅葉のことだから秋ということになるのだろう。
初秋のヒグラシに晩秋の色変わると、何か季節的に合わない感じがするが、「ヒグラシの声に色変わる」と付くことで、秋の長い時間の流れを表しているのだろう。
句としても、
色かはる山の白雲打ちなびき衣手うすし日ぐらしのこゑ
と一首の和歌の形にしたときには複雑な倒置になっていて、倒置を元に戻すと、
日ぐらしのこゑに色かはる山の白雲打ちなびき衣手うすし
となる。前句の「衣手うすし」を打ちなびく白雲の衣と取り成している。
二句前の、
この比ごろしげさまさる道芝
あつき日は影よわる露の秋風に 宗祇
の句に劣らず、高度な技術を感じさせる。逆に言うとこういう高度なてにはの使い方をしないと展開できないほど、詰まってしまって重い展開になっている感じもする。
次の、
色かはる山の白雲打ちなびき
尾上をのへの松も心みせけり 宗祇
の句は素直にすっと付いている。
松は常緑樹で紅葉はしないし、枯れて茶色くなることもない。いつでも夏のように青々としてはいるものの、山の稜線にうっすらと薄い雲が打ちなびくと、松もうっすらと白く色を変え、秋めいて見える。
白くなるというのは、人間の頭が白髪になってゆくのを連想させる。寓意としては、いつまでも若いつまりでいても頭は白くなり、人生の秋を知るということか。
名残の懐紙の裏になる前にもうひと展開欲しい所で、「心見せけり」の擬人化した言い回しは、寓意と取り成して恋への展開を催促しているように思える。いわゆる「恋呼び出し」の句だ。
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