2016年10月19日水曜日

 連歌は本来雑談のような気楽なものだった。
 伊地知鐵男は宗祇法師の言葉を引用してこう言ってる。

 『宗祇は連歌の特質を、

 連歌は、先世上の雑談の返答をなすに似たり。さても昨日の風はいかめしく吹つるかな、といひ侍らば、さこそ、いづくの花も残らず、散つらめ、などと返答をしたるやうにあるべき也。又至極の後は、西といへば東と答ふるやうに句をなす物なり。(『宗祇初学抄』)

と、連歌は問答対話におなじだという。』(『連歌の世界』伊地知鐵男、1967、吉川弘文館p.2~3)

つまり、
 「昨日は風が強かったなー。」
 「花もみんな散っちゃっただろうなー」
みたいな乗りが大事で、当意即妙の問答が要求される。
 おそらく平安時代の貴族社会でも、こうした季候の挨拶がうまくできるか、スムーズでいて、それでいて機知の聞いた面白い会話ができるというのが条件だったものと思われる。
 清少納言の『枕草子』も、本来はそういった会話の手引書だったのではないかと思われる。「枕」というのは頭に敷くもののことで、会話のきっかけに、という意味があったと思われる。つまり、
 「いやー春でんなー。」
 「春ゆうたらあけぼのでんなー。」
 「そや、紫色の雲が低くたなびいていて、あれは奇麗でんなー。」
というような会話が理想とされていたのであろう。連歌もその延長線上にある。
 機知に富んだ会話というのは、ありきたりな返しだけでなく、変化も必要になる。
 「昨日は風が強かったなー。」
 「花もみんな散っちゃっただろうなー」
 「そうだな、風が強かったからなー。」
なんて元に戻ってしまうと、会話が堂々巡りして何の発展もなくなる。連歌でも同じことが言える。そこでたとえば「今日花見に来る人は悔しいだろうなー」みたいな展開が必要になる。
 たとえば、

 春夏秋に風ぞ変れる

という前句に対し、

    春夏秋に風ぞ変れる
 花のあと青葉なりしが紅葉して     周阿

と付けるとする。ここで、
 「春夏秋と風は変って行くもんだなー。」
 「そうだな、桜の花も散った若葉になって秋には紅葉するようなもんだな。」
という受け答えが成立する。
 和歌の形にしても、

 花のあと青葉なりしが紅葉して春夏秋に風ぞ変れる

と奇麗につながる。
 ここには別の発想ももちろんある。

    春夏秋に風ぞ変れる
 雪の時さていかならむ峯の松    二条良基

 これだと、
 「春夏秋と風は変って行くもんだなー。」
 「これから雪の季節になって峰の松はどうなっちゃうのかなー。」
となる。これでもいい。
 周阿の句は前句の春夏秋をそのままなぞって具体例をあげたのだが、二条良基は春夏秋と来たら次は冬という発想をしている。
 和歌の形にしても、

 雪の時さていかならむ峯の松春夏秋に風ぞ変れる

と、きちんとつながる。
 一条兼良は『筆のすさび』のなかで、初心者のために、他にどういう付け句が可能かというところでいくつか試みている。

    春夏秋に風ぞ変れる
 実を結ぶ梨のかた枝の花の跡

 既に秋になって実がなっている梨の片枝にまだ花の跡が残っているのをみると、いきなり実がなったのではなく、春夏秋と季節が変って実になったのだなー、て感じがします、というやや回りくどい付けだ。

    春夏秋に風ぞ変れる
 毛をかふるしらおの鷹のとやだしに

 これも春夏秋と鷹の毛が変ったという受け。

    春夏秋に風ぞ変れる
 都いでていく関越えつ白河や

 これは春に都を出て白河の関に到達するまでに春夏秋と過ぎ去ったというもの。言うまでもなく、

 都をば霞みとともにたちしかど秋風ぞふく白河の関   能因法師

の歌を本歌としたもの。
 和歌の形にすると、

 実を結ぶ梨のかた枝の花の跡春夏秋に風ぞ変れる
 毛をかふるしらおの鷹のとやだしに春夏秋に風ぞ変れる
 都いでていく関越えつ白河や春夏秋に風ぞ変れる

となる。
 いずれも発想としては、周阿と同様、春夏秋という変化をそのまま具体化する発想で、これらに比べると二条公の発想が秀でているように思える。
 後に紹巴は、今では周阿の体は時代遅れで、二条公を良しとすると言っている。
 このように、日常会話の延長にありながら、57577の形でその機知を競うというのが連歌の本来の楽しみだった。
 俳諧で例を挙げれば、

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

の発句に、二つの脇が付けられている。
 一つは、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 明日来る人はくやしがる春    風麦

で、これだと、
 「桜の木の下では汁も膾も桜が散って何もかもが桜でんがなー。」
 「こんなに散ってしまうと、明日来る人はさぞかし悔しいやろな。」
てな感じの会話になる。
 さらに第三はこう付ける。

   明日来る人はくやしがる春
 蝶蜂を愛する程の情にて     良品

 「こんなに散ってしまうと、明日来る人はさぞかし悔しいやろな。」
 「そうそう、蝶や蜂のことまで気遣ったりして。」
と会話が展開する。
 もう一つのバージョンだと、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 西日のどかによき天気なり    珎碩

で、これだと、
 「桜の木の下では汁も膾も桜が散って何もかもが桜でんがなー。」
 「そや、西日も長閑でいい天気やな。」
 そして、第三は、

   西日のどかによき天気なり
 旅人の虱かき行く春暮れて    曲水

 「そや、西日も長閑でいい天気やな。」
 「春も終わりのこの季節になると旅する人は虱が痒くて、ぽりぽりやってんやろな。」
と会話が発展してゆく。
 どちらが良いか悪いかということではなく、俳諧の連歌も基本的にはこういう会話が基本になっている例として提示しておきたい。
 これを和歌の形にすると、

 木のもとに汁も膾も桜かな明日来る人はくやしがる春
 蝶蜂を愛する程の情にて明日来る人はくやしがる春
 木のもとに汁も膾も桜かな西日のどかによき天気なり
 旅人の虱かき行く春暮れて西日のどかによき天気なり

ときちんと付いて和歌の体をなしていることがわかる。

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