今日も千山撰『花の雲』から。
びんぼなれど淋しさ何の秋の暮 擧桃
擧桃は姫路市的形の人。
『去来抄』の、
「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋 風国
此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾(かつ)てさびしからず。仍(よつ)て作ス。去来曰、是これ殺風景也なり。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若(も)し情有らバ如何のごとくにも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝(まさら)ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37~38)
という本意本情の議論を思い出す。
この句も「淋しさ何の秋の暮」だけなら、「秋の暮といったら淋しいに決まってるのに何で」ということになるだろう。上五に「びんぼ(貧乏)なれど」と来ることで、貧しくても秋の暮の淋しさに耐えて頑張るんだという句になる。秋の暮の本意本情をはずしてはいない。
ねぶたがる人を起して月見とよ 擧桃
これも名月なのに寝るというのは無風流ということになりがちだが、実際眠い時もある。それをうまく月の本意本情をはずさずに詠んでいる。「面」の所で紹介した、
まあ寝まいあれほど月が晴て居ル 凉風
の発句とも似ている。
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