音楽は自分のスタイルで好きなように楽しむのが一番なのだけど、コンサートとなると会場の都合やいろいろな周囲への気遣いは欠かせなくなる。アンコールで時間が押しているとなれば、メンバー紹介でソロ演奏をやれと言われても自ずと短く切り上げるというのが常識だ。
ただ、なまじ才能があり、人一倍表現欲求が強いと、ついついそれを忘れて自分の世界に浸りこんでしまうものなのだろう。世界のヒノテルもなかなかそこまでは教えられなかったか。
それはともかくとして、「立出て」の巻の続き。
五句目
夜習仕まふ時に成けり
又こそは凝水(げすい)こぼして帰るらん 占立
「凝水」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注によれば、「下水、建水。茶の湯で茶碗を洗った水、またはそれを入れる器。」とあり、「夜習いを終えて又下水をその辺りにこぼして帰っていったのではあるまいか。前句の『夜習』を稽古事とした。」とある。多分この解釈でいいのだろう。今のところ他のは思いつかない。
ウィキペディアでは「建水」で出てくる。
六句目
又こそは凝水こぼして帰るらん
跣(はだし)になるるそだちきたなし 才麿
この場合「凝水」は茶の湯のそれではなく、普通の下水だろう。
初裏
七句目
跣になるるそだちきたなし
傾城に身のありたけを打明し 尚列
傾城は吉原の遊女でその頂点に立つのは花魁。ただ財をなし、地位を成すだけでなく、それとともに風流の心も持ち合わせなくては、花魁と会うことはできない。
この男もそこまでは辿り着けないような冴えない男なのだろう。遊郭に来てまで、実は貧しい生まれでなどと身の上話をする。夢を売る遊郭で現実に引き戻すような話は、相当に野暮なのではないかと思う。
今でいえば出会い系の店で出会った女子高生に説教垂れるような輩か。元文科省の官僚のような。
八句目
傾城に身のありたけを打明し
世を住かへて憂名(うきな)はがさん 海牛
前句を傾城の遊女にではなく、傾城に入れ込んだ身のありたけを打ち明けしとして、世を離れ出家して浮き名を晴らそうということか。
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