今日は秋晴れでちょっと暑い。
それでは「蓮の実に」の巻の続き。
二十五句目
今の身請は袖のむら雨
物毎に堪忍始末の恋止メて 賀子
ネットを見ていたら、西鶴の貞享五年の『日本永代蔵』の引用で「始末大明神のご託宣にまかせ、金銀をたむべし。これ二親のほかに命の親なり」というのを見つけた。「始末」というのは「算用」「才覚」と並んで商いの三法と言われていたらしい。
天和の頃は好色もので一世を風靡した西鶴が、一転して商いの道で「始末」の肝要を解き「恋止メて」になったと思うと、楽屋落ちの句になる。
句自体は物事に堪忍や始末が必要だと、真面目に商売の道に励むことにして、遊女の身請けの話も涙を呑んで止めにした、といったところだろう。
二十六句目
物毎に堪忍始末の恋止メて
弘誓(ぐぜい)の舟に乗からはみな 西鶴
「弘誓」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」によれば、「菩薩が自ら悟りをひらき、あらゆる衆生を救って彼岸に渡そうとする広大な誓願」だそうだ。
本来仏教は自分さえ救われればいいというものではなく、むしろ自らを犠牲にしてでも衆生を救うということに重点が置かれていて、だからこそお坊さんは尊敬されてきた。厳しい修行もそのためのものだった。
菩薩の悟りに導かれ、みなその弘誓の船に乗り込むには、物毎を堪忍始末し、恋の煩悩も断ち切る。
二十七句目
弘誓の舟に乗からはみな
白銀(しろかね)の金(こがね)の鯛も醜(なまぐさ)し 西鶴
舟だから魚、それも鯛ということになる。仏道に入るなら殺生を戒め、鯛などという生臭いものも食うべきではない。金の鯛でも銀の鯛でも生臭いというのは、お金への執着もまた鯛同様生臭いということか。
二十八句目
白銀の金の鯛も醜し
碪(きぬた)にさむる夢の本意なし 賀子
夢の中で金銀の鯛の舞でも見たのだろうか。竜宮城の夢も玉手箱ならぬ砧の音で不意に目覚め、がっかりする。
『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』では、
千たび打つ砧の音に夢さめて
もの思ふ袖の露ぞくだくる
式子内親王(新古今和歌集)
を踏まえているという。本歌というほど元歌に寄り添わない換骨奪胎は、大阪談林の好む所か。
二十九句目
碪にさむる夢の本意なし
忍び道夜るの芭蕉におどされて 賀子
俳諧師としての芭蕉は仮の姿で夜には忍びの者となって‥‥、なんて句ではない。でもちょっとは狙っているかも。
秋の夜の月に浮かれて女の下に通おうとすると、芭蕉の大きな葉っぱは秋風に大きく揺れて音を立て、砧もまた寂しげに聞こえ、何となく白けてしまったという方の意味か。
月の定座だが月夜を匂わせるだけで月は出なかった。
三十句目
忍び道夜るの芭蕉におどされて
月を妬める後の母親 西鶴
しょうがないからここで月を出すしかない。
「後の母親」は実の母親ではなく父の後妻ということか。娘に通ってくる男を妬む。それでわざわざ芭蕉を植えたか。
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