昨日は巾着田の彼岸花を見に行った。元から有名であるだけでなく、今年は天覧の花となったことで、西武線の快速急行は通勤電車並みのラッシュだった。
彼岸花の方は満開で、やや終わった花も混じっていた。他にも芙蓉、コスモス、蕎麦の花が咲いていた。山慈菇今日は生きてる人ばかり。
花見の後は飯能のCARVAAN CAMP(カールヴァーン・キャンプ)で入間川の渓谷を見ながらビールを飲んだ。気分はリア充。
さて、大阪談林の俳諧をここのところ集中的に読んできたので、ここら辺で大阪談林と芭蕉との接点を探ってみよう。
鬼貫は天和の頃に伊丹流の長発句で一世を風靡したが、貞享に入るとちょうど芭蕉が蕉風確立に向い、破調から脱却していったように、鬼貫も常の発句の体に戻っていった。
その後鬼貫は医者になるために大阪で暮らすこととなった。この頃大阪の蕉門を荷っていた之道との交流を持つことにもなったようだ。同時に鬼貫は大阪談林の人たちとの交流も多く、それは鬼貫編の『大悟物狂』(元禄三年刊)に、才麿、来山、西鶴などが名を連ねていることでも明らかだろう。
同じ元禄三年、之道は『あめ子』を編纂する。「あめ子」とは琵琶湖に棲み、そこに注ぐ川に遡上するビワマスの河川残留型で、古くからこの地方では「江鮭子(あめご)」と呼ばれてきた。サクラマスの河川残留型も「アマゴ」あるいは「アメゴ」と呼ばれるので紛らわしい。
その『あめ子』に鬼貫の発句による両吟表六句が掲載されている。
中の秋十日あまり、之道、
芭蕉翁をたづねて行日、
後のなつかしきを
橋よりも戻る心を瀬田の奥 鬼貫
瀬田の橋は琵琶湖にかかる橋で、芭蕉も貞亨五年に、
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋 芭蕉
の句を詠んでいる。中世には連歌師の宗長が、
武士のやばせの舟は速くとも
急がば回れ瀬田の唐橋
宗長法師
と詠み、「急がば回れ」という諺の元となっている。
鬼貫の発句は、之道が瀬田の橋を渡って無名庵の芭蕉の元へ向う、そのはなむけの句であろう。こういう送別の発句には必ずしも季語を入れる必要はない。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出る際の杉風の発句にも、
何となう柴吹く風も哀れなり 杉風
というのがある。
鬼貫の句も、季語はないが前書きに「中の秋十日あまり」とあるから、季節が秋なのははっきりしている。杉風の句も「野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉」の句を受けたものだから、季節が秋であることははっきりしている。
鬼貫の発句は「てには」がわかりにくいが、「瀬田の奥(へ行くのは)橋よりも戻る心(によるもの)を」であろう。橋があるから行くのではない、師である芭蕉の元に戻る心があるからいくのでしょう、という意味だろう。
これに対し之道はこう答える。
橋よりも戻る心を瀬田の奥
空いそぎする秋の船衆 之道
これは宗長法師の「急がば回れ」の歌によるもので、やばせの舟は無駄に急いでますが、私はゆっくり行ってくることにします、という意味だろう。そして、わざわざ回り道してゆっくり行くという所に、鬼貫さんとしばし別れるのは辛いことです、という気持ちが込められている。
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