さて、「立出て」の巻もいよいよ最後六句を残すのみ。一気に行ってみよう。
二裏
三十一句目
そのしはぶきのうそと真を
とりどりに骨牌(かるた)をかくす膝の下 才麿
この場合のカルタは百人一首やいろはカルタではなく、賭博に用いられるカルタだろう。こっそりと膝の下に札を隠しておいて、見つかると「こはいかさまにござるか」とか言われたのだろう。咳払いも仲間同士の合図だろう。
カルタは戦国時代に南蛮からカードが伝わり、ポルトガル語のcartaがそのまま日本語になった。「トランプ」は明治に再び西洋からカードが入ってきた時に、切り札の意味のtrumpが誤ってカードの名称として広まったと言われている。
カルタは江戸時代には日本独自にいろいろな発展をした。天正カルタが改良され、17世紀後半にウンスンカルタが流行したというから、才麿の時代のカルタはウンスンカルタだったかもしれない。ただ、ウィキペディアにはウンスンカルタができたのが元禄の終わりから宝永の初め頃(18世紀初頭)とあり、だとすれば天正カルタだったかもしれない。
天正カルタが禁制をのがれるために数字を表記しなくなり絵を描くようになったのが花札だといわれている。これも芭蕉や才麿の時代よりもかなり後になる。
三十二句目
とりどりに骨牌をかくす膝の下
とまりをかゆる春雨の船 尚列
春雨で川が増水して船も泊める場所を変える。そんな船の船頭たちの楽しみは賭けカルタで、船が出せない日には船頭たちが集まって隠れて遊んでたのだろう。
三十三句目
とまりをかゆる春雨の船
土産(いへづと)に白魚買て干せける 海牛
そんな船乗りたちも家へ帰ればいい親父で、土産に白魚を買ってきては「干して食えや」なんて言っている。あるあるだけど笑いに持っていかずに人情で「ええ話」に持ってゆく。これぞ大阪談林。
三十四句目
土産に白魚買て干せける
わらやもおなじ雛の置よう 千山
蝉丸の歌に、
世の中はとてもかくても同じこと
宮もわら屋もはてしなければ
蝉丸『新古今集』
とあるが、宮廷に雛飾りがあるように、庶民の家でも庶民なりの雛人形が飾られている、というふうに換骨奪胎する。
三十五句目
わらやもおなじ雛の置よう
咲花に菁(あおな)かけたも風情也 占立
春の句が三句続いたが、花の定座なのでもう一句春の句になる。春秋は五句まで許される。
畑の隅に桜の木があって、その下に青菜が干してある光景は、昔の農村ではありがちな景色だったのだろう。
挙句
咲花に菁かけたも風情也
天女(つばめ)のめぐり空のゆたけき 執筆
挙句は古式にのっとって執筆(筆記係)が務める。
せっかく四句春が続いたのだから、ここは天女(つばめ)を出して五つ春を続けて目出度く締める。広い大空を「かまわず」飛びまわるツバメの姿は、まさに江戸庶民のあらまし、自由、フリーダムだ。
で、おまけとしてこやん源氏「明石」の続きでも。
こんな田舎では、今のこの状況を理解できて、過去の事例やこれからどうなるかをすばやく判断して、これはこうであれはこうなんだと即答してくれるような人はいません。
得体の知れない猟師たちが偉い人がここにいるから何かわかるのかと集まってきて、わけのわからないいことをあーだこーだと騒ぎ立てるのも何とも困ったものですが、追い払うわけにもいきません。
「この風がもうちぃと吹きよったなら、高潮で全部持っていかれたろうな。
神頼みゆうのも馬鹿にはできんな。」
という声が聞こえてくるものの、それにしてはあまりにも頼りなく馬鹿です。
「海に住む神の助けがなかったら
渦巻く潮に流されてたな」
強がってはみても、丸一日吹き荒れていた風の騒ぎにすっかり疲労困憊で、意に反して急に睡魔に襲われるのでした。
申し訳程度の居間なのでただそこいらの物に寄りかかってうとうとしていると、亡き院が生きていた頃のそのままの姿で目の前に立っていて、
「何でこんなとんでもないところに留まっているんだ。」
と言って手をつかんで引き寄せます。
そして、
「住吉の神がお導きになるのだから、早く船に乗ってこの海岸から離れるんだ。」
と言うのです。
なんだか嬉しくなって、
「あなたのその畏れ多い御姿とお別れして以来、いろいろ悲しいことばかりたくさんあったので、今はこの浜辺で身分を捨てて隠れ住むつもりで‥‥」
と申し上げると、
「それはいけない。
これはちょっとした天罰だ。
われは在位の頃、悪気はなかったのだが結果的に罪なことをしてしまい、その罪を生きている間に償いきれなくてこの世のことにかまっている暇もなかったんだが、あまりにも悲しみに沈んでいるお前のことを見ていると我慢できなくて、海に入り渚に上りえらく苦労をしたもんだが、せっかくこの世に舞い戻ったのだから、ついでに内裏に行っていろいろ言いたいことがあるんでこれから京都へ急がねば‥‥」
と言って去っていきました。
もっと一緒にいたいのに思うととにかく悲しく、
「お供します。」
と言って涙をぼろぼろ流しながら見上げると、そこには誰もいず、月の顔だけが煌々として、夢見ていたとも思えずまだ院の気配がそこにあるような気がして、空の雲が悲しそうにたなびいてました。
今となっては夢にも見ることがなく、逢いたいと思ってもかなえられなかったそのお姿をほのかにではあるがはっきりと見ることができただけに、その面影を思い浮かべては、「俺がこんな悲しみのどん底にいて死にそうになっているのを助けようと、空のかなたから駆けつけてくれたのだと思うとすっかり感激して、それもこれもこの一連の事件があればこそだと、去って行った後のこの月夜が限りなく心強く嬉しく感じられるのでした。
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