2024年2月19日月曜日

  河津桜の季節になったが、同もしばらく雨が続きそうだ。気温が下がれば、花も長持ちしてくれるのだが。

 それでは「雑談集」の続き。

 「翁北国行脚のころさらしなの三句を書きとめ、いづれかと申されしに、

 俤や姨ひとり泣く月の友

といふ句を可然に定めたりと申しければ、『誠しかなり。一句人目にはたたず侍れども、其夜の月の天心にいたる所、人のしる事少なり』と悦び申されけり。されば友吉が、

 さらしなの月は四角にもなかりけり

といふ句は武さし野の月須磨あかし絵島にかけても影同じ。さみだれにかくれぬ橋いかでふみたがふべきや。」(雑談集)

 これも、五月雨の句の続きともいえる、ふるふらぬ論になる。

 「北国行脚のころ」とあるが、これは美濃から信州姥捨て山へ行った時の句で、これを其角に見せたのは江戸に帰ってからのことで、その翌年の春は『奥の細道』の旅に出るから、間違いではない。北国行脚の前ということになる。
 三句あったというが、他の句は残っていない。『更科紀行』には、

 いざよひもまださらしなの郡哉   芭蕉
 更科や三みよさの月見雲もなし   越人

の句が並べられているが、十五夜、十六夜、十七夜と日にちを違えた句で、この三句というわけではないのだろう。
 芭蕉は時折弟子に句を選ばせるが、本当に迷っている時もあれば、弟子の力量を試す場合もある。この場合どっちだったかはわからない。ただ、其角が選んだこの句に芭蕉も納得してったようだ。
 そんな目立った景物などがあるわけではないが、姨捨の伝説は誰もが知る所で、姨捨の月の天心に懸かれば、それを見た姨が独り泣いているその情は誰しもわかる。姨捨山の月でなければ詠めない句だ。
 これに対して、

 さらしなの月は四角にもなかりけり 友吉

の句は単に更科の月だからと言って特別四角かったりするわけではない、という句で、これならどこの月だって四角ではない。
 名所だから特別ではないという所に意味があるとしても、月の名所はたくさんある。つまりこの句の更科は武蔵野の月でもいいし、須磨明石など何でもいいということになる。
 五月雨の隠れぬ橋は琵琶湖の景色があって意味があるから勢田の橋は動かせない。それは姨ひとり泣く月が姨捨山の月でなくてはならないのと同じだ、ということになる。
 ちなみに友吉の句は其角撰『虚栗』に収録されている。

 「かりそめの旅に立出てても先づ思ひ合らる川風寒み千鳥なく也。此歌炎暑にも寒しとは俊成卿の雑談也。

 出女や一匹なけば蝉の声      自悦」(雑談集)

 歌は、

 思ひかねいもかりゆけば冬の夜の
     川風寒み千鳥なくなり
              紀貫之(拾遺集、和漢朗詠集)

の歌だろう。
 「此歌炎暑にも寒しとは俊成卿の雑談也」とあるのは、鴨長明『無名抄』の「俊恵歌体を定むること」の、

 「この歌ばかり面影あるたぐひはなし。『六月二十六日の寛算が日も、これだに詠ずれば寒くなる』とぞ、ある人は申し侍りし。」

のことか。だとすると、俊恵との記憶違いか。
 自悦は京の人で延宝の頃に『釈教俳諧』『洛陽集』『花洛六百句』などを編纂し、高政・常矩らとともに活躍した人のようだ。(『芭蕉と京都俳壇: 蕉風胎動の延宝・天和期を考える
』佐藤勝明著)
 句の方は、この句も同じように涼しくなるという意味か。
 出女はウィキペディアに、

 「出女(でおんな)は、 江戸時代の私娼の一種である。各地の宿場の旅籠にいて、客引きの女性であるが、売春もした。曲亭馬琴の『覉旅漫録』20に、岡崎の出女の項に、娼婦の意で用いている。
 森川許六編の『風俗文選』に載る直江木導の「出女説」には、「出女(省略)あるは朝立の旅人を送り、打著姿(うちぎぬすがた)をぬぎ捨てて箒を飛ばし、蔀(しとみ)やり戸おしひらきてより、やがて衣引きかつぎ、再寝(またね)の夢のさめ時は、腹の減る期(ご)を合図と思へり、(省略)やうやう昼の日ざし晴やかに輝く頃、見世の正面に座をしめ、泊り作らんとて両肌(もろはだ)ぬぎの大けはひ、首筋のあたりより、燕の舞ひありく景気こそ、目さむる心地はせられ」とある。飯盛り女、留女と同類のものである。」

とある。出女に見送られて宿を出るとちょうど蝉が鳴き始める、ということか。

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