2024年2月12日月曜日

 今日は秦野の白笹稲荷神社の初午祭だった。
 去年もそうだったが、露店が並び、多くの人で賑わっていた。
 それでは其角『雑談集』の続き。

 「支那彌三郎入道宗鑑は生涯をかろんじて隠徳高く山崎の桑の門しかも車馬の喧きなし。ひとひ近衛殿宇治へ逍遥の比、去る法師しれるものなりと尋ね入らせ給ひけるに、痩労れたる老法師ひとり庭草取りなどして、そのほどの池のたたえに水かがみ見けるさまを、

 宗鑑がすがたをみよやかきつばた

と仰せ下されたれば、則ち、

 のまんとすれば夏の澤水

とつかふまつりける。」(雑談集)

 俳諧の祖と呼ばれる山崎宗鑑は一四六五年頃の生まれで連歌師の宗長よりも二回りくらい年下になる。コトバンクの「デジタル大辞泉 「山崎宗鑑」の意味・読み・例文・類語」には、

 「室町後期の連歌師・俳人。近江の人。本名、志那弥三郎範重。将軍足利義尚に仕え、のち出家して山城国山崎に閑居したという。「新撰犬筑波集」の編者。荒木田守武とともに俳諧の祖とされる。生没年未詳。」

とある。
 芭蕉も貞享五年夏、『笈の小文』の旅を明石で終えて帰る途中、山崎に立ち寄り、

 有がたきすがた拝まん杜若    芭蕉

の句を詠んでいる。近衛殿が宗鑑を訪ねて行くと、宗鑑の痩せ細った哀れな姿を見て、まるで餓鬼のようだと「餓鬼つばた」の句を詠んだというのは、多分に伝説に属するものであろう。芭蕉や其角の時代にはこの形で流布していたようだ。
 時代が下って江戸後期の『俳家奇人談』(竹内玄玄一著、文化十三年刊)には、

 「ある時逍遙院殿(実隆卿)へ宗長諸とも参るとて、つねに愛しける杜若を折りて献りけるに、卿御覧じて、

 手に持てる姿を見れば餓鬼つばた

と興じ給ひけるを、

   のまんとすれど夏の沢水     宗長
 くちなわに追はれて何地かへるらん

 鑑が第三なり(案ずるに雑談集、俳諧句解、閑田耕筆等みな誤りて実隆公を竜山公とし、宗長が脇を鑑となす。」(『俳家奇人談・続俳家奇人談』岩波文庫)

となっている。
 出典は『滑稽太平記』(作者、成立年不明)だという。ただ、近衛殿が竜山公近衛前久だとすると、天文五年(一五三六年)生まれの竜山公が天文二十三年(一五五四年)に宗鑑が没する前に会ったということだから、十代の頃の話となり、やや無理がある。その辺りから、同時代の三条西実隆の話とする方が、理にかなっている。
 どっちが正しいのか、はたまた両方とも都市伝説的なものなのかは定かではない。ただ、其角や芭蕉の知ってたのは『滑稽太平記』の方ではなく、其角が『雑談集』の方に記した方のもので、こちらの方が原型で『滑稽太平記』の方が尾鰭のついた話だったとも考えられる。

 「当意興ありけるにや。元政上人の隠逸伝には宗鑑が伝も入れらるべきを、此ワキ凡俗にかへりたる本心ありとてのぞかれ侍ると也。一句一生の徳を無(なみ)しけるはあさましき有様なれど、昼寝(ちうしん)のせめにおもひ合せてはいかにぞも思ひゆるすべき事ども也。」(雑談集)

 元政上人はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「元政」の意味・読み・例文・類語」に、

 「江戸前期の日蓮宗の僧。漢詩人。歌人。姓は石井氏。諱(いみな)は元政、法名は日政。はじめ彦根藩に仕えたが、のち妙顕寺の日豊に師事。京都深草に元政庵(竹葉庵・称心庵)を建てて法華経の修行に励んだ。詩文にすぐれ、熊沢蕃山、石川丈山、明人陳元、斌貝らと交遊。「深草の元政」とも。著に「扶桑(ふそう)隠逸伝」「本朝法華伝」「食医要編」、詩文集「艸山集」など。元和九~寛文八年(一六二三‐六八)」

とある。隠逸伝は寛文四年(一六六四年)刊の『扶桑隠逸伝』のことであろう。この宗鑑の伝承が省かれたことを残念がっている。
 餓鬼だから夏の沢水を啜って生きているというのが凡俗だというのだろうか。

 「後は山崎の草庵はそのまま古沓と法衣をのこして、さらに行く所をしらず。俗にやはた山の天狗になりて廿余年の後も月のあかき夜など八幡山崎のあたりをさまよひける。人に逢ひてもものいふことなし。凉(しをけ)しまなこ角(かど)ありて人をあやしとのみ見かはしたるをおそれて、それかともとがめず正に見たりしといふ人まれ多し。」(雑談集)

 宗鑑のいた山崎の草庵は残っていて、芭蕉も訪ねているし、其角も訪れていたのだろう。宗鑑はその後行方をくらまし、八幡山の天狗になったというのも、当時の宗鑑の伝説の一つだったか。

0 件のコメント:

コメントを投稿